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国民教育運動と共闘の展開の紹介


by kokuminkyoutou

解放運動

第Ⅲ章 部落解放運動と責善教育
1.未解放部落の社会・経済的基盤
2 解放運動


2 解放運動


 <概観>

 現在和歌山県において、解放同盟の支部がある未解放部落は、百部落のうち約三十である。 しかし伊都郡高野口町、かつらぎ町、那賀郡那賀町、海南市、有田市の部落では、主として和教組と、御坊市の未組織部落では日高地区労と、田辺市の部落では自由労組等と結んで、支部結成の動きが高まっている。
まず和歌山県の解放運動を地域的に概観する。和歌山県を一応紀北と紀南に分けると、紀北には解放同盟の支部がある部落が少なく、特に伊都・那賀両郡には甚だ少ない。紀南には解放同盟の支部がある部落が多い。
那賀、伊都両郡の部落には、戦前部落出身の大地主があり、寺院と結んで融和運動を指導していたところもある。 かれらは戦前から官憲との結びつきが強かった。戦後もこの地域には、融和運動の影響はなかなか拭いきれないものかある。 実際この地域に解放同盟の支部が組織されたのは一九五八年のことであった。紀北の部落民は、紀南の部落民とくらべると、一般にやや豊かで、ある程度の農地を持ち、部落産業の存在するところもある。 また紀北は紀南にくらべて、近代工業も発達しており、部落民にも臨時工という劣悪な状態でにあるが、雇傭の機会があたえられている。しかし一般に本工が少いので組織労働者となる機会にはとぼしい。また中小企業にやとわれているものもかなりあるが、中小企業における労働組合の組織率は小さい。こうした情勢のなかで、戦後の解放運動はなかなか浸透にくかった。和歌山市、海草郡には部落出身の大地主も少なく戦前から解放運動も行なわれていた。しかし、都市部落の指導者のなかには、民政党に所属する者もあり、身分闘争と階級闘争とを峻別しようとする傾向もないわけではなかった 。この県下最大の都市部落には家父長制にもわざわいされ、今日でも皮革産業の労働組合が組織できにくい。 しかし、一九一八年の米騒動では、伊都郡岸上村、那賀郡狩宿村、海草郡安原村西本渡等で日頃の不満が爆発した。 一九三二年頃には伊都郡橋本町原田に全農原田支部があった。西本渡には戦後、解放同盟の支部があり、原田・岸上を中心に、一九六一年に橋本支部が結成されたことが注目される。
紀北にくらべて貧困な、有田・日高・西牟娶・東牟霎四郡の紀南には、戦前から解放動が紀北にくらべると盛んであった。紀南の部落には、農地が少なく、部落産業の見るべきものもなく、戦前から部落民は小作人となるか、日雇として製材業、山林労働、水揚げ、土工等に雇われるか以外に生活の資を求めることが困難で
ぁった。この地域では、部落民と一般民との矛盾対立が雇傭の面にもあらわれて、もっとも尖鋭化し、また部落民の中には県木労に参加するものもあった。この地域においては、解放同盟支部が組織された部落は半ば以上に達している。しかし勤評闘争以後分裂になやんでいる部落も西牟婁郡には少なくないJこうして勤評闘争以後解放運動は停滞した。しかし一時的停滞にもかかわらず、新しい芽が生れている。伊都郡原田支部の再建を契機に一般民(組織労働者)を含めて、橋本支部が結成され、中絶していた県連大会が、一九六一年五月橋本で開催されるに至った。
 紀南の部落は一九二八年の米騒動では余り動かなかったようだ。しふし一九二九1一九三三年頃には農民組人口運動の中核として旦局郡・有田郡の部落民が活躍した。有田郡吉備町庄二部のように、その伝統を保持している所もあるが、農地改革以後その面影をとどめないところもある。われわれはこうした現状をふまえて、和歌山県における戦後解放運動を融和運動から脱皮した西牟婁郡旧朝来利大谷を焦点として述べることにする。

 一 教員組合運動と結んで

 <初期の解放運動> 

  和歌山県における戦後の部落解放運動では、教師の役割がかなり大きかった。また一般民出身の進歩的教師は責音数育の実践を通じて統一戦線の活動家に成長していった。また解放運動のつきあげによって、公選制教育委員会は文教政策として民主教育を一応防衛しなければならなかった。また、部落出身の教師には解放運動の実践家が多数あった。かように解放運動は教員組合運動とタイアップしていたところに和歌山県の解放運動の特長があった。そしてこうした運動家の中に寺院出身の教師も少なくないことも注目すべきであろう。彼等は部落の代表的インテリゲンチャであった。特に紀南の部落においては、寺院を除いて、中間層というべき者が少なかった。彼等の中の良心的分子が劣悪な部落民の状態に目をむけて、解放運動の指導者となる素地は十分存在していた。もちろん解放運動の指導者が、教師や僧侶の中からだげ生れたのではなかった。解放運動の闘争のなかから新しい指導者が輩出したことも注目される。
 責善教育が創設されたのは一九四七年三月十五日のことだったが、この頃和歌山県の解放運動の状況を「紀北地方は革正会を中心にし、紀南地方は新生社を焦点として活発な運動を展開しています」 (解放新開二号一九四七・五・十五)と松本五郎氏は述べているが、準正社は那賀郡田中村西井坂で、新生社は有田郡御霊村庄二部で運動を展開していた。当時、解放委員会は組織的でなかったので事実上の支部が、革正会とか新生社とか名乗っていたのである。革正会は松本五郎氏(県職業安定課職員)を指導者としていたが、氏がここを去るとともに、解放運動は一時衰退した。しかしこの地域には母の会が組織され、活発な運動を展開し、一九五八年四月八日解放同盟打田支部として復活した。なお打田支部は西井坂だけでなく、東国分、古和田の部落民をも包含し、活発な運動を展開している。
 こうした動きに対して、一九四六年夏頃から、旧同和奉公会(融和団休)および水平運動関係者によって世話人会がもたれ、同和奉公会の資金八万円を準備金として一九四六年十二月自由新生同盟が結成された。しかし、責善教育運動の昂揚のなかに、自由新生同盟は一九四八年四月娘には解消しなければならなかった。その融和主義的性格が、民主主義と相いれなかったためである。
 こうして一九四八年十二月部落解放全国委員会和歌山県連が結成された。県連は農民組合とともに農地の再分配を要求し、教職員組合と緊密な連けいをとって、責善教育の必要性を強調した。
                                                            
by kokuminkyoutou | 2014-08-03 14:04