第Ⅰ章 和歌山県における統一戦緑と共闘の発展
1 統一戦線へいたる共闘の展開
一 共闘の形成とその問題点
二 共闘の諸形態
2 共闘の基盤とその根拠
一 基幹産業労働組合
二 労農提携
三 中小資本家との統一
2 共闘の基盤とその根拠
一 基幹産業労働組合P20
<基幹産業労組を中軸として>
和歌山県においても、民主統一戦線結成の礎石としての共闘を発展させてゆく基盤は、広くまた強い。基幹産業労組の指導性が、和歌山具において、十分発揮されていないことについては、すでにのべたが、それにもかかわらず、基幹産業労組を中軸とした労働組合の統一は、次第にすすんでいる。ただ、それぞれの基幹産業労組が、時には共闘について積極的な役割をはたし、時には消極的な態度をとるなどの起伏を示してきたことを見逃してはならない。
たとえば、一九五一年頃まで、ストライキをおこなったことのなかった住友金属(旧扶桑金属)労組和歌山工場支部は、その後、県地評の中心的な組織として(「地区連」が県地評に発展的に解消した当初のことである。(、中小企業労組のストライキを献身的に支持し(三光染菜労組のストライキ等)鴻池組その他の工場内下請企業労組(原材料の陸上げ、搬入、商品の撥出、諸修繕などを主とした業務としている)の争議を支援し、極度の差別待遇を受けていた臨時工の待遇改善問題 … 臨時工を定期的に本工に採用する制度の確立、食堂の開放など … の解決に努力してきたが、現在その活動は、さきにのべたように停滞している。三菱電機労組和歌山支部は、かつて和歌山市における皮革業、鉄工業などの組合結成にたいし、協力と指導を与えてきたが、一九五四年、ベースダウンの問題がおこってからその積極的な要は見られない。
ところが、他方、かつて「たたかわざる組合」という汚名をとっていた石油産業労組、すなわら、丸善石油労組が、すこしずつ労働組合としての活動の胎動を示しはじめ、あるいは、操業再開以来、たえず問題化していたところの周辺農民、漁民から提起された、媒煙、廃油による損害要求にたいして、非協力的であり、勤評闘争においても、きわめて消梅的な動きしか示さなかった東亜燃料労組が、一九五八年、執行部を改選していらい、安保闘争をはじめとし、初島町における民主的諸運動の中核となっている。東牟婁郡旧色川村の三菱妙法鉱業所労組は、経営が、石原産業の手をはなれて三菱鉱業に買却されるにあたり、人員整理、労働条件改悪反対などで闘争したが、それ以来、従来「紀南労協」の中での消極的な態度から、その中核に成長し、紀南地区中小労働組合の指導的な力となっている。
「全鉱連」の全国的組織につながっていた那賀郡旧麻生津村古河鉱業飯盛鉱業所労組(硫化鉱)および妙法鉱業所労組は、一九四九年以来、早くからストライキをもってたたかっていたが、その他の和歌山県における拠点的企業の労働組合が、新宮市本州製紙労組熊野支部をも含め、ストライキの手段をもって、要求を提起してきたことに、重要な意味がある。帝国主義的支配、独占資本の収奪と労働者階級との対決が、次第に明確になってきていることを示しているからである。
ところが、工場の大拡張をおこない、熔鉱炉を増設しょうとしている住友金属、あるいは、高オクタンの精油を精製するため、新しい設備の充実を図っている東亜燃料、丸善石油においても、巨額の資本投下に対応して、合理化は急速にすすんでいる。住友金属の工場拡張と生産の飛躍的増大を意図する計画は、常識的に考えられている程、雇用の増大をもたらすものでないことが、すでに明らかにされている。石油産業においても、精油生産量の急激な上昇にもかかわらず、労働者数は停滞ないし、減少さえ示している。この問題は、そのまま、下請企業の労働者紅直結する問題である。オートメインヨン化した一連の作業のなかで、一部の新しい機械の導入は、他の部面における機械化を必らずおしすすめる。下請企業 … 原材料の搬入、慧の欝、諸修理工事、ドラム曜の洗浄など … にもこれは波及し、同じような合理化の圧力を、労働者は安富こととならぎる芝ない。妙法鉱業所が、石原産業所属当時におこなった重水による選鉱のオートメインヨン化も、大なり小なりに、すでにこのことを示してきたのである。本州製紙は、現在、吉野熊野奥地に、かなり広大な山林を所有しているが、熊野工場は、従来から移入パルプに依存していて、この不合理を是正するものとして、工場の縮小と、一部機械の静岡県清水工場への移転をおこなった。前の例とは若干ことなるが、合理化による本工の人員整理が、臨時工、下請企菓労働者の雇用減少と結びついていることに、かわりはない。この事業縮小案にたいし、熊野工場労組は、下請企業労組の支援をうけながら、一九六〇年、闘争にはいっている。このような問題として、継続的に問題は提起されているのである。
<労働者階級統一の基盤> P22
和歌山県における拠点企業も、多くの臨時工をかかえている。臨時工のなかには、常用工と殆んど同じ作業に従事し、常用的に勤務しているものが多い。これは常用工の賃金が、臨時工によって規制されるということであり、逆に用工の賃金が、臨時工を規制するということである。他方、臨時工のなかには、下請企業労働者と同じ作業に従事しているものをもち、ここでも賃金は、互いに規制しあう関係にあり、利害関係は、共通しているのである。下請企業における労組のある職種は、常に失業者との交流のなかでおこなわれている。
最低賃金制の確立、合理化反対の統一闘争が、すでに労働者階級の当面の要求として提起され、そして、三光染業労組の争議のピケ破りに臨時工が利用されようとし、明光バス労組の争議のピケ破りに、御坊市の部落の失業者が利用されようとした事実の前に、労働者階級の中における相互移行と、相互規制の存在は、拠点企業労組と、自由労組まで含む零細企業労組との統一の客観的な基盤をなすものである。
現在、和歌山県における拠点企業労組は、国鉄労組、仝農林、全電通、全逓、全専売、和教組、高教組などの官公労とともに県地評、地区労の中で指導的役割を演じている。県地評、地区労を通じてなされた未組織労働者の組織化とその闘争にたいする積極的な援助は、一九五五年ごろから急速に結成されたところの、紀北、紀南における一般合同労組の結成にあたっての援助、さらに、紀北においてほ、一般合同労組の和歌山港湾労働者がおこなった賃上げ争議、襖材労働組合がおこなった下請賃金値上争議、理髪職人組合がおこなった労働条件改善争議、水了軒(駅弁食堂)労組がおこなった賃上げ争議などにたいしての積極的な援助、同様に紀南においては、一般合同労組の東牟婁郡四村の山本人造宝石労組の一九五七年以来くりかえされた賃上げ争議、観光地勝浦町の旅館女中によっておこなわれた一九五六年の待遇改善要求争議などにたいする積極的な援助など、枚挙にいとまがない。
敗北におわったけれど、一九五三年、和歌山市有田交通(タクー)の労働者が、御用組合的な組合の行き方に抗して、賃金引上げ、賃金体系の改正、労働基準法をまもることなどを要求して、争議団を結成して闘争したとき、あるいは、那賀郡岩出町吉村製糸の労働者の組合結成を助けて(敗戦後まもなく吉村製糸労働組合は結成され、闘争もおこなっていたが、その後、いつのまにか消滅していた)罰金制、個人生活にたいする不当介人、労働基準法逮反を追求して人権闘争をおこしたときに見られた県地評の献身的な支援、一九六〇年のベースアップを要求した橋本市職組にたいする伊都労協の献身的な支援、田辺市における貝ボタン労組の結成と賃上げ闘争にたいする西牟婁地評の支援、一九四六年、貝ボタシの中で最大の企業である金浦ボタンで組合は結成され、闘争も、おこなったが、これも、いつの間にか消滅している)など、単に、僅かの例をあげたにすぎないが、拠点企業労組、官公労を中軸とした県地評、地区労の組織が、県下の中小企業労組を広く指導し、支援しているということのなかに、基幹産業労組と中小企業労組との共闘の基盤の強さを見ないわけにはゆかない。
和歌山県重要産業の一つである紡績業においては、日東紡労組海南支部、広支部、大和紡労組松原支部(御坊市)、大日本城維労組和歌山支部などが指導的な力となっている。和歌山市のメリヤス労組「染色労組連合」高野口町を中心とした伊都繊維労働組合などを結集して、「全紙同盟」の支部を作り、和歌山県労働戦線の統言阻む力として、全労系民労連に紆集しているが、大企業労組が、高野口の零細企業労組の結成にたいしておこなった支援も、一方では、忘れがたいものをもっている。前の参議院選挙で、全国区は社長、地方区は革新系候補をおすことを決定した大和新労組の弱さほ、自由労組(御坊市)の地区労加入を頑強に拒否し、統一でなく分裂の方向を示す面をもっているとはいえ、ここにも大企業労働者と、中小企業労働者の統一の基盤の存在を見るのである。日東紡海南支部のように、資本と妥協し、「歌声サークル」や「民青同」に加入した労働者を排除しようとする動きさえ示している組合幹部の主観的な意向にもかかわらず、紡績労働者である限り、労働者としての自覚にたって、民主統一戦線の戦列の中に、生きぬいてくることにたいして、確信をもつ。
東亜燃料、妙法鉱業所労組をのぞくと、地域の中小企業労働者にたいする支援の態勢は、現在、つよいとはいえない。けれども統一される根拠は、日本通運和歌山営業所が、大量の臨時工へ切り替えたことに示されているように、そして、労働者年たいする収奪が、いろいろな面から強化されているように … ILOの条約すらいろいろな点で、履行されていない。和歌山県においても、「賃金保護に関する条約」という結構な条約について見るに、賃金不払いにたいしてもつ労働者の債嘩より、国税、担保付き債権が優先するということで、一九四八年から四九年へかけての中小企業の崩壊期に、残されたところの割れた火鉢とさびついた火箸をかかえて、十年近くも会社敷地の片隅で生活している労働者すら見られ、その他労働基準法の諸条項も、次第に骨抜きの形で実施されている … 現在のアメリカ対日政策と国内の政治、経済政策の強行されていることを、基幹産業を中心とする労働者階級の統一戦線確立へすすんでゆく根拠と見るのである。
それは、スタンダード・バキュームの支配下にある東亜燃料労組が、初島町周辺における安保闘争の中核となり、下請企業を「構内労連」に結成し、これを地区労に加入せしめ、みづからも総評加盟の問題を討議するまでに成長していることのなかに示されている。住友金属、本州製紙の労組も、かつてそのような積極性を示していたのである。
二 労 農 担 携 P25
<労農提携の基盤> P25
和歌山県の県債をみわたすと、労農提携の基盤は、無限大である。すでにのべたところであるが、地域共闘組織の多くは、不十分であったとしてもこの労農提携の上に作りあげられている。
山村においては、零細農がそのまま山林労働者(伐木、造材、適材、植林、下刈等)であり、堕伐人夫であり、時としては、林道開設、保修などの土工に移行している。本宮山林労働組合が、全島大会で山林開放の必要を強調したことに示されているように、山林労働者と農民とは、直結している。そして、これらは失業者として、自由労組を結成しているのである。七・一八水害後の自由労組の結成が、このことを示している。他府県からきた山林労働者、木工との交流も、このなかで深まり、経験もゆたか覧っている。山村をでて、都会にでていった村の労働者も、帰村してあたらしい労働者的な感覚と知識を地域にうえつけている。
和歌山県の長い海岸線につらなる漁村をとって見ても同様である。半農半漁民を多くかかえ、この数カ年間、豊漁の朗報を耳にしない。紀北、和歌山市周辺の雑賀崎、田ノ浦、加太、海南市冷水、海草郡下津、初島、有田箕島町辰カ浜の一本釣りをはじめ、辰ヵ浜以北の底引き網、巾着網、日高郡から西牟婁郡へかけての夜たき網(今ジ、小サバ、小ムロ、イカ)ランプ網(サバ、アジ)西牟蓑のケンケン釣(カツオ、シビ)西牟婁から東牟婁にかけてのハエ綱(マグロ、カツオ)東牟婁郡、宇久井、西牟婁郡大島などの大敷網(マグロ、ブリ、サワラ)など、すべて不漁をかこっている。勝浦町、新宮市三輪崎を中心とした遠洋漁業(南方ばかりでなく、三陸沖までを含む)あるいは、三年ばかり前には、景気のよい話をもちかえったところの南
方白蝶貝採取船団も、不振の声をはなっている。
このような漁業不振のなかで、和歌山県の漁民は、海の上でなくて、陸の上で生活しているのである。いうまでもなく、仕事は仲仕か、土エか、失対事業登録日雇いであり、家庭での内職である。
日高郡・西牟婁郡の多くの零細漁民は(たとえば田辺市江川)冬期にはいって不漁をかこつ。この時期に、これらの漁民(引子、船子を主とする)は勝浦、新宮市三輪崎から、南方また三陸沖へ、漁業労働者として、多く出漁している。漁民、漁業労働者、仲仕、土工、は失業を一身のなかに直結しているのであって、山林労働者の場合とことならない。田辺市のメーデーに漁民が多数参加してきたのは、このような事実にもとづいている。そして同時に、遠洋漁業、仲仕、土工のなかで、労働者としての見識と経験を交流しているのである。
一例をあげて見よう。西牟婁郡串本町橋代は、戦前、遠洋漁業の中心、遠洋漁草分けの地としての名をほしいままにしていた。パイロットは、ほとんどこの地域からでていた。第二次大戦中、三〇屯級の船約三〇隻は、青壮年層の働き手とともに、看視船、輸送船として徴発され(なかには、ラバウルまでいっているものもある)ほとんど全員が海の藻くずとなったが、敗戦後、遠洋漁業の中心は、勝浦に移行し、橋代はいまさびれ切っている。古老の話しぶりのなかに、憤まんやるかたない卒直な感じを、人びとは、ただちに受けとることができるであろう。船をうしなったこの地の漁民は、江川の漁民とおなじように、勝浦か三輪崎の船(三〇~五〇トン)で漁業労働者として出漁する。ところが、このようななかで、橋代の青年団会議を船上で開くという叡智をつくりだすのである。そして陸へあがれば、仲仕、農民、失業者であり、自由労組の結成者でもある。労働者としての意識の交流が、県をことにする漁民のなかで、どのようにたくましく成長するものであるかを示している。
「木の国」の港、とくに田辺市以南には、材木の流れにつれて、沖仲仕が多い。主として材木の水場人夫である。旧日置町をたずねると、冬のさ中の干潮時、腰まで海水につかりながら、材木を水揚げしている女性の姿を見かけるだろう。このような沖仲仕の多くも、また零細な農民である。船の多いときは、近辺の農村をめぐって、必要な労働力を調達することを普通としている。和歌山県の零細な農家から、やはり季節的に、仲仕、土工に移行してゆくのである。
電源ダム、防水ダムの建設で、河川による流筏(管流を含めて)が停滞し、機帆船による搬入が多くなっている。和歌山県の港をみると、和歌山港の竣深はかなりすすんでいるが(住友金属が最大の利益をうけている)下津港(東亜燃料、丸善石油の独占的な利用となっている)日高郡由良港(海上自衛隊の基地であり、大阪窯業など石灰石の出荷に若干利用されている)をのぞいて、良港をもたない。木材の機帆船による搬入、搬出は、河口が浅いため、潮の干満により大きな支障をうけ、どの船を先船とし後船にするかの慣行は、かなりの年期をいれた仲仕といえども、トラブルをおこすほど複雑である。日置町の水場人夫が、酉牟草郡周参見港、田辺市文里港に乗りつけたときは、その港の水揚、積荷の規則に従うことが慣例となっている。最近、北洋材の輸入が多くなるにつれ、水場人夫の移動は、かつてのように和歌山慧ら、田辺港にまで、その行動半径を拡大している。水琴人夫の労働者的な嘉の交流は、互いに流れゆくなかで作りだされているのであり、ここでも労農直結の形をとっている。労災保険、失業保険を要求して結成された日置港湾作業労働組合(水揚人夫)、さら早く、共産党と社会党との指導方針の不一致から、困難な道をたどったけれど古座川木場労働組合(西向水揚人夫)の例や、が結成されて、古座川木労連のー構成分子となったことを見ても、このことを示している。
未解放部落に目を移して見よう。
和歌山県における部落民は、約五万人を数え、紀の川平野、日高平野の一部の部落をのぞいて、貧農が圧倒的に多い。もっとも和歌山市中枢部の部落その他、農地をほとんどもたないものも、若干見受けられるが、部落民の大多数は、貧農であると同時に土工、仲仕、失対事業登録日雇、その他雑業の日稼人である。たとえば、朝来村における共闘の場合、貧農出身の仲仕が有力な支柱であったし、日置水揚労働者の中にも、部落の貧農からでた、かなりの人を見受ける。御坊市の自由労組の八〇%り上を占めているのは、部落の失業者であり、西向水揚労働組合も、部落の半失業的な労働者によって作りだされたものである。解放同盟が、いろいろな地域と時点ではたした共闘の中での役割は、評価しようもないほど高いものであるが、貧農、土エ、仲仕、失業者などと直結した形をとっていることは明瞭である。
労農提携の基盤は、きわめて広いことを知るのである。 P28
1 統一戦線へいたる共闘の展開
一 共闘の形成とその問題点
二 共闘の諸形態
2 共闘の基盤とその根拠
一 基幹産業労働組合
二 労農提携
三 中小資本家との統一
2 共闘の基盤とその根拠
一 基幹産業労働組合P20
<基幹産業労組を中軸として>
和歌山県においても、民主統一戦線結成の礎石としての共闘を発展させてゆく基盤は、広くまた強い。基幹産業労組の指導性が、和歌山具において、十分発揮されていないことについては、すでにのべたが、それにもかかわらず、基幹産業労組を中軸とした労働組合の統一は、次第にすすんでいる。ただ、それぞれの基幹産業労組が、時には共闘について積極的な役割をはたし、時には消極的な態度をとるなどの起伏を示してきたことを見逃してはならない。
たとえば、一九五一年頃まで、ストライキをおこなったことのなかった住友金属(旧扶桑金属)労組和歌山工場支部は、その後、県地評の中心的な組織として(「地区連」が県地評に発展的に解消した当初のことである。(、中小企業労組のストライキを献身的に支持し(三光染菜労組のストライキ等)鴻池組その他の工場内下請企業労組(原材料の陸上げ、搬入、商品の撥出、諸修繕などを主とした業務としている)の争議を支援し、極度の差別待遇を受けていた臨時工の待遇改善問題 … 臨時工を定期的に本工に採用する制度の確立、食堂の開放など … の解決に努力してきたが、現在その活動は、さきにのべたように停滞している。三菱電機労組和歌山支部は、かつて和歌山市における皮革業、鉄工業などの組合結成にたいし、協力と指導を与えてきたが、一九五四年、ベースダウンの問題がおこってからその積極的な要は見られない。
ところが、他方、かつて「たたかわざる組合」という汚名をとっていた石油産業労組、すなわら、丸善石油労組が、すこしずつ労働組合としての活動の胎動を示しはじめ、あるいは、操業再開以来、たえず問題化していたところの周辺農民、漁民から提起された、媒煙、廃油による損害要求にたいして、非協力的であり、勤評闘争においても、きわめて消梅的な動きしか示さなかった東亜燃料労組が、一九五八年、執行部を改選していらい、安保闘争をはじめとし、初島町における民主的諸運動の中核となっている。東牟婁郡旧色川村の三菱妙法鉱業所労組は、経営が、石原産業の手をはなれて三菱鉱業に買却されるにあたり、人員整理、労働条件改悪反対などで闘争したが、それ以来、従来「紀南労協」の中での消極的な態度から、その中核に成長し、紀南地区中小労働組合の指導的な力となっている。
「全鉱連」の全国的組織につながっていた那賀郡旧麻生津村古河鉱業飯盛鉱業所労組(硫化鉱)および妙法鉱業所労組は、一九四九年以来、早くからストライキをもってたたかっていたが、その他の和歌山県における拠点的企業の労働組合が、新宮市本州製紙労組熊野支部をも含め、ストライキの手段をもって、要求を提起してきたことに、重要な意味がある。帝国主義的支配、独占資本の収奪と労働者階級との対決が、次第に明確になってきていることを示しているからである。
ところが、工場の大拡張をおこない、熔鉱炉を増設しょうとしている住友金属、あるいは、高オクタンの精油を精製するため、新しい設備の充実を図っている東亜燃料、丸善石油においても、巨額の資本投下に対応して、合理化は急速にすすんでいる。住友金属の工場拡張と生産の飛躍的増大を意図する計画は、常識的に考えられている程、雇用の増大をもたらすものでないことが、すでに明らかにされている。石油産業においても、精油生産量の急激な上昇にもかかわらず、労働者数は停滞ないし、減少さえ示している。この問題は、そのまま、下請企業の労働者紅直結する問題である。オートメインヨン化した一連の作業のなかで、一部の新しい機械の導入は、他の部面における機械化を必らずおしすすめる。下請企業 … 原材料の搬入、慧の欝、諸修理工事、ドラム曜の洗浄など … にもこれは波及し、同じような合理化の圧力を、労働者は安富こととならぎる芝ない。妙法鉱業所が、石原産業所属当時におこなった重水による選鉱のオートメインヨン化も、大なり小なりに、すでにこのことを示してきたのである。本州製紙は、現在、吉野熊野奥地に、かなり広大な山林を所有しているが、熊野工場は、従来から移入パルプに依存していて、この不合理を是正するものとして、工場の縮小と、一部機械の静岡県清水工場への移転をおこなった。前の例とは若干ことなるが、合理化による本工の人員整理が、臨時工、下請企菓労働者の雇用減少と結びついていることに、かわりはない。この事業縮小案にたいし、熊野工場労組は、下請企業労組の支援をうけながら、一九六〇年、闘争にはいっている。このような問題として、継続的に問題は提起されているのである。
<労働者階級統一の基盤> P22
和歌山県における拠点企業も、多くの臨時工をかかえている。臨時工のなかには、常用工と殆んど同じ作業に従事し、常用的に勤務しているものが多い。これは常用工の賃金が、臨時工によって規制されるということであり、逆に用工の賃金が、臨時工を規制するということである。他方、臨時工のなかには、下請企業労働者と同じ作業に従事しているものをもち、ここでも賃金は、互いに規制しあう関係にあり、利害関係は、共通しているのである。下請企業における労組のある職種は、常に失業者との交流のなかでおこなわれている。
最低賃金制の確立、合理化反対の統一闘争が、すでに労働者階級の当面の要求として提起され、そして、三光染業労組の争議のピケ破りに臨時工が利用されようとし、明光バス労組の争議のピケ破りに、御坊市の部落の失業者が利用されようとした事実の前に、労働者階級の中における相互移行と、相互規制の存在は、拠点企業労組と、自由労組まで含む零細企業労組との統一の客観的な基盤をなすものである。
現在、和歌山県における拠点企業労組は、国鉄労組、仝農林、全電通、全逓、全専売、和教組、高教組などの官公労とともに県地評、地区労の中で指導的役割を演じている。県地評、地区労を通じてなされた未組織労働者の組織化とその闘争にたいする積極的な援助は、一九五五年ごろから急速に結成されたところの、紀北、紀南における一般合同労組の結成にあたっての援助、さらに、紀北においてほ、一般合同労組の和歌山港湾労働者がおこなった賃上げ争議、襖材労働組合がおこなった下請賃金値上争議、理髪職人組合がおこなった労働条件改善争議、水了軒(駅弁食堂)労組がおこなった賃上げ争議などにたいしての積極的な援助、同様に紀南においては、一般合同労組の東牟婁郡四村の山本人造宝石労組の一九五七年以来くりかえされた賃上げ争議、観光地勝浦町の旅館女中によっておこなわれた一九五六年の待遇改善要求争議などにたいする積極的な援助など、枚挙にいとまがない。
敗北におわったけれど、一九五三年、和歌山市有田交通(タクー)の労働者が、御用組合的な組合の行き方に抗して、賃金引上げ、賃金体系の改正、労働基準法をまもることなどを要求して、争議団を結成して闘争したとき、あるいは、那賀郡岩出町吉村製糸の労働者の組合結成を助けて(敗戦後まもなく吉村製糸労働組合は結成され、闘争もおこなっていたが、その後、いつのまにか消滅していた)罰金制、個人生活にたいする不当介人、労働基準法逮反を追求して人権闘争をおこしたときに見られた県地評の献身的な支援、一九六〇年のベースアップを要求した橋本市職組にたいする伊都労協の献身的な支援、田辺市における貝ボタン労組の結成と賃上げ闘争にたいする西牟婁地評の支援、一九四六年、貝ボタシの中で最大の企業である金浦ボタンで組合は結成され、闘争も、おこなったが、これも、いつの間にか消滅している)など、単に、僅かの例をあげたにすぎないが、拠点企業労組、官公労を中軸とした県地評、地区労の組織が、県下の中小企業労組を広く指導し、支援しているということのなかに、基幹産業労組と中小企業労組との共闘の基盤の強さを見ないわけにはゆかない。
和歌山県重要産業の一つである紡績業においては、日東紡労組海南支部、広支部、大和紡労組松原支部(御坊市)、大日本城維労組和歌山支部などが指導的な力となっている。和歌山市のメリヤス労組「染色労組連合」高野口町を中心とした伊都繊維労働組合などを結集して、「全紙同盟」の支部を作り、和歌山県労働戦線の統言阻む力として、全労系民労連に紆集しているが、大企業労組が、高野口の零細企業労組の結成にたいしておこなった支援も、一方では、忘れがたいものをもっている。前の参議院選挙で、全国区は社長、地方区は革新系候補をおすことを決定した大和新労組の弱さほ、自由労組(御坊市)の地区労加入を頑強に拒否し、統一でなく分裂の方向を示す面をもっているとはいえ、ここにも大企業労働者と、中小企業労働者の統一の基盤の存在を見るのである。日東紡海南支部のように、資本と妥協し、「歌声サークル」や「民青同」に加入した労働者を排除しようとする動きさえ示している組合幹部の主観的な意向にもかかわらず、紡績労働者である限り、労働者としての自覚にたって、民主統一戦線の戦列の中に、生きぬいてくることにたいして、確信をもつ。
東亜燃料、妙法鉱業所労組をのぞくと、地域の中小企業労働者にたいする支援の態勢は、現在、つよいとはいえない。けれども統一される根拠は、日本通運和歌山営業所が、大量の臨時工へ切り替えたことに示されているように、そして、労働者年たいする収奪が、いろいろな面から強化されているように … ILOの条約すらいろいろな点で、履行されていない。和歌山県においても、「賃金保護に関する条約」という結構な条約について見るに、賃金不払いにたいしてもつ労働者の債嘩より、国税、担保付き債権が優先するということで、一九四八年から四九年へかけての中小企業の崩壊期に、残されたところの割れた火鉢とさびついた火箸をかかえて、十年近くも会社敷地の片隅で生活している労働者すら見られ、その他労働基準法の諸条項も、次第に骨抜きの形で実施されている … 現在のアメリカ対日政策と国内の政治、経済政策の強行されていることを、基幹産業を中心とする労働者階級の統一戦線確立へすすんでゆく根拠と見るのである。
それは、スタンダード・バキュームの支配下にある東亜燃料労組が、初島町周辺における安保闘争の中核となり、下請企業を「構内労連」に結成し、これを地区労に加入せしめ、みづからも総評加盟の問題を討議するまでに成長していることのなかに示されている。住友金属、本州製紙の労組も、かつてそのような積極性を示していたのである。
二 労 農 担 携 P25
<労農提携の基盤> P25
和歌山県の県債をみわたすと、労農提携の基盤は、無限大である。すでにのべたところであるが、地域共闘組織の多くは、不十分であったとしてもこの労農提携の上に作りあげられている。
山村においては、零細農がそのまま山林労働者(伐木、造材、適材、植林、下刈等)であり、堕伐人夫であり、時としては、林道開設、保修などの土工に移行している。本宮山林労働組合が、全島大会で山林開放の必要を強調したことに示されているように、山林労働者と農民とは、直結している。そして、これらは失業者として、自由労組を結成しているのである。七・一八水害後の自由労組の結成が、このことを示している。他府県からきた山林労働者、木工との交流も、このなかで深まり、経験もゆたか覧っている。山村をでて、都会にでていった村の労働者も、帰村してあたらしい労働者的な感覚と知識を地域にうえつけている。
和歌山県の長い海岸線につらなる漁村をとって見ても同様である。半農半漁民を多くかかえ、この数カ年間、豊漁の朗報を耳にしない。紀北、和歌山市周辺の雑賀崎、田ノ浦、加太、海南市冷水、海草郡下津、初島、有田箕島町辰カ浜の一本釣りをはじめ、辰ヵ浜以北の底引き網、巾着網、日高郡から西牟婁郡へかけての夜たき網(今ジ、小サバ、小ムロ、イカ)ランプ網(サバ、アジ)西牟蓑のケンケン釣(カツオ、シビ)西牟婁から東牟婁にかけてのハエ綱(マグロ、カツオ)東牟婁郡、宇久井、西牟婁郡大島などの大敷網(マグロ、ブリ、サワラ)など、すべて不漁をかこっている。勝浦町、新宮市三輪崎を中心とした遠洋漁業(南方ばかりでなく、三陸沖までを含む)あるいは、三年ばかり前には、景気のよい話をもちかえったところの南
方白蝶貝採取船団も、不振の声をはなっている。
このような漁業不振のなかで、和歌山県の漁民は、海の上でなくて、陸の上で生活しているのである。いうまでもなく、仕事は仲仕か、土エか、失対事業登録日雇いであり、家庭での内職である。
日高郡・西牟婁郡の多くの零細漁民は(たとえば田辺市江川)冬期にはいって不漁をかこつ。この時期に、これらの漁民(引子、船子を主とする)は勝浦、新宮市三輪崎から、南方また三陸沖へ、漁業労働者として、多く出漁している。漁民、漁業労働者、仲仕、土工、は失業を一身のなかに直結しているのであって、山林労働者の場合とことならない。田辺市のメーデーに漁民が多数参加してきたのは、このような事実にもとづいている。そして同時に、遠洋漁業、仲仕、土工のなかで、労働者としての見識と経験を交流しているのである。
一例をあげて見よう。西牟婁郡串本町橋代は、戦前、遠洋漁業の中心、遠洋漁草分けの地としての名をほしいままにしていた。パイロットは、ほとんどこの地域からでていた。第二次大戦中、三〇屯級の船約三〇隻は、青壮年層の働き手とともに、看視船、輸送船として徴発され(なかには、ラバウルまでいっているものもある)ほとんど全員が海の藻くずとなったが、敗戦後、遠洋漁業の中心は、勝浦に移行し、橋代はいまさびれ切っている。古老の話しぶりのなかに、憤まんやるかたない卒直な感じを、人びとは、ただちに受けとることができるであろう。船をうしなったこの地の漁民は、江川の漁民とおなじように、勝浦か三輪崎の船(三〇~五〇トン)で漁業労働者として出漁する。ところが、このようななかで、橋代の青年団会議を船上で開くという叡智をつくりだすのである。そして陸へあがれば、仲仕、農民、失業者であり、自由労組の結成者でもある。労働者としての意識の交流が、県をことにする漁民のなかで、どのようにたくましく成長するものであるかを示している。
「木の国」の港、とくに田辺市以南には、材木の流れにつれて、沖仲仕が多い。主として材木の水場人夫である。旧日置町をたずねると、冬のさ中の干潮時、腰まで海水につかりながら、材木を水揚げしている女性の姿を見かけるだろう。このような沖仲仕の多くも、また零細な農民である。船の多いときは、近辺の農村をめぐって、必要な労働力を調達することを普通としている。和歌山県の零細な農家から、やはり季節的に、仲仕、土工に移行してゆくのである。
電源ダム、防水ダムの建設で、河川による流筏(管流を含めて)が停滞し、機帆船による搬入が多くなっている。和歌山県の港をみると、和歌山港の竣深はかなりすすんでいるが(住友金属が最大の利益をうけている)下津港(東亜燃料、丸善石油の独占的な利用となっている)日高郡由良港(海上自衛隊の基地であり、大阪窯業など石灰石の出荷に若干利用されている)をのぞいて、良港をもたない。木材の機帆船による搬入、搬出は、河口が浅いため、潮の干満により大きな支障をうけ、どの船を先船とし後船にするかの慣行は、かなりの年期をいれた仲仕といえども、トラブルをおこすほど複雑である。日置町の水場人夫が、酉牟草郡周参見港、田辺市文里港に乗りつけたときは、その港の水揚、積荷の規則に従うことが慣例となっている。最近、北洋材の輸入が多くなるにつれ、水場人夫の移動は、かつてのように和歌山慧ら、田辺港にまで、その行動半径を拡大している。水琴人夫の労働者的な嘉の交流は、互いに流れゆくなかで作りだされているのであり、ここでも労農直結の形をとっている。労災保険、失業保険を要求して結成された日置港湾作業労働組合(水揚人夫)、さら早く、共産党と社会党との指導方針の不一致から、困難な道をたどったけれど古座川木場労働組合(西向水揚人夫)の例や、が結成されて、古座川木労連のー構成分子となったことを見ても、このことを示している。
未解放部落に目を移して見よう。
和歌山県における部落民は、約五万人を数え、紀の川平野、日高平野の一部の部落をのぞいて、貧農が圧倒的に多い。もっとも和歌山市中枢部の部落その他、農地をほとんどもたないものも、若干見受けられるが、部落民の大多数は、貧農であると同時に土工、仲仕、失対事業登録日雇、その他雑業の日稼人である。たとえば、朝来村における共闘の場合、貧農出身の仲仕が有力な支柱であったし、日置水揚労働者の中にも、部落の貧農からでた、かなりの人を見受ける。御坊市の自由労組の八〇%り上を占めているのは、部落の失業者であり、西向水揚労働組合も、部落の半失業的な労働者によって作りだされたものである。解放同盟が、いろいろな地域と時点ではたした共闘の中での役割は、評価しようもないほど高いものであるが、貧農、土エ、仲仕、失業者などと直結した形をとっていることは明瞭である。
労農提携の基盤は、きわめて広いことを知るのである。 P28
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by kokuminkyoutou
| 2015-10-02 15:25