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国民教育運動と共闘の展開の紹介


by kokuminkyoutou
第Ⅰ章 和歌山県における統一戦緑と共闘の発展
1 統一戦線へいたる共闘の展開
 一 共闘の形成とその問題点
 二 共闘の諸形態
2 共闘の基盤とその根拠
 一 基幹産業労働組合
 二 労農提携
 三 中小資本家との統一

2 共闘の基盤とその根拠

一 基幹産業労働組合
P20

 <基幹産業労組を中軸として> 

和歌山県においても、民主統一戦線結成の礎石としての共闘を発展させてゆく基盤は、広くまた強い。基幹産業労組の指導性が、和歌山具において、十分発揮されていないことについては、すでにのべたが、それにもかかわらず、基幹産業労組を中軸とした労働組合の統一は、次第にすすんでいる。ただ、それぞれの基幹産業労組が、時には共闘について積極的な役割をはたし、時には消極的な態度をとるなどの起伏を示してきたことを見逃してはならない。
 たとえば、一九五一年頃まで、ストライキをおこなったことのなかった住友金属(旧扶桑金属)労組和歌山工場支部は、その後、県地評の中心的な組織として(「地区連」が県地評に発展的に解消した当初のことである。(、中小企業労組のストライキを献身的に支持し(三光染菜労組のストライキ等)鴻池組その他の工場内下請企業労組(原材料の陸上げ、搬入、商品の撥出、諸修繕などを主とした業務としている)の争議を支援し、極度の差別待遇を受けていた臨時工の待遇改善問題 … 臨時工を定期的に本工に採用する制度の確立、食堂の開放など … の解決に努力してきたが、現在その活動は、さきにのべたように停滞している。三菱電機労組和歌山支部は、かつて和歌山市における皮革業、鉄工業などの組合結成にたいし、協力と指導を与えてきたが、一九五四年、ベースダウンの問題がおこってからその積極的な要は見られない。
 ところが、他方、かつて「たたかわざる組合」という汚名をとっていた石油産業労組、すなわら、丸善石油労組が、すこしずつ労働組合としての活動の胎動を示しはじめ、あるいは、操業再開以来、たえず問題化していたところの周辺農民、漁民から提起された、媒煙、廃油による損害要求にたいして、非協力的であり、勤評闘争においても、きわめて消梅的な動きしか示さなかった東亜燃料労組が、一九五八年、執行部を改選していらい、安保闘争をはじめとし、初島町における民主的諸運動の中核となっている。東牟婁郡旧色川村の三菱妙法鉱業所労組は、経営が、石原産業の手をはなれて三菱鉱業に買却されるにあたり、人員整理、労働条件改悪反対などで闘争したが、それ以来、従来「紀南労協」の中での消極的な態度から、その中核に成長し、紀南地区中小労働組合の指導的な力となっている。 
「全鉱連」の全国的組織につながっていた那賀郡旧麻生津村古河鉱業飯盛鉱業所労組(硫化鉱)および妙法鉱業所労組は、一九四九年以来、早くからストライキをもってたたかっていたが、その他の和歌山県における拠点的企業の労働組合が、新宮市本州製紙労組熊野支部をも含め、ストライキの手段をもって、要求を提起してきたことに、重要な意味がある。帝国主義的支配、独占資本の収奪と労働者階級との対決が、次第に明確になってきていることを示しているからである。
 ところが、工場の大拡張をおこない、熔鉱炉を増設しょうとしている住友金属、あるいは、高オクタンの精油を精製するため、新しい設備の充実を図っている東亜燃料、丸善石油においても、巨額の資本投下に対応して、合理化は急速にすすんでいる。住友金属の工場拡張と生産の飛躍的増大を意図する計画は、常識的に考えられている程、雇用の増大をもたらすものでないことが、すでに明らかにされている。石油産業においても、精油生産量の急激な上昇にもかかわらず、労働者数は停滞ないし、減少さえ示している。この問題は、そのまま、下請企業の労働者紅直結する問題である。オートメインヨン化した一連の作業のなかで、一部の新しい機械の導入は、他の部面における機械化を必らずおしすすめる。下請企業 … 原材料の搬入、慧の欝、諸修理工事、ドラム曜の洗浄など … にもこれは波及し、同じような合理化の圧力を、労働者は安富こととならぎる芝ない。妙法鉱業所が、石原産業所属当時におこなった重水による選鉱のオートメインヨン化も、大なり小なりに、すでにこのことを示してきたのである。本州製紙は、現在、吉野熊野奥地に、かなり広大な山林を所有しているが、熊野工場は、従来から移入パルプに依存していて、この不合理を是正するものとして、工場の縮小と、一部機械の静岡県清水工場への移転をおこなった。前の例とは若干ことなるが、合理化による本工の人員整理が、臨時工、下請企菓労働者の雇用減少と結びついていることに、かわりはない。この事業縮小案にたいし、熊野工場労組は、下請企業労組の支援をうけながら、一九六〇年、闘争にはいっている。このような問題として、継続的に問題は提起されているのである。

<労働者階級統一の基盤>   P22

和歌山県における拠点企業も、多くの臨時工をかかえている。臨時工のなかには、常用工と殆んど同じ作業に従事し、常用的に勤務しているものが多い。これは常用工の賃金が、臨時工によって規制されるということであり、逆に用工の賃金が、臨時工を規制するということである。他方、臨時工のなかには、下請企業労働者と同じ作業に従事しているものをもち、ここでも賃金は、互いに規制しあう関係にあり、利害関係は、共通しているのである。下請企業における労組のある職種は、常に失業者との交流のなかでおこなわれている。
最低賃金制の確立、合理化反対の統一闘争が、すでに労働者階級の当面の要求として提起され、そして、三光染業労組の争議のピケ破りに臨時工が利用されようとし、明光バス労組の争議のピケ破りに、御坊市の部落の失業者が利用されようとした事実の前に、労働者階級の中における相互移行と、相互規制の存在は、拠点企業労組と、自由労組まで含む零細企業労組との統一の客観的な基盤をなすものである。
 現在、和歌山県における拠点企業労組は、国鉄労組、仝農林、全電通、全逓、全専売、和教組、高教組などの官公労とともに県地評、地区労の中で指導的役割を演じている。県地評、地区労を通じてなされた未組織労働者の組織化とその闘争にたいする積極的な援助は、一九五五年ごろから急速に結成されたところの、紀北、紀南における一般合同労組の結成にあたっての援助、さらに、紀北においてほ、一般合同労組の和歌山港湾労働者がおこなった賃上げ争議、襖材労働組合がおこなった下請賃金値上争議、理髪職人組合がおこなった労働条件改善争議、水了軒(駅弁食堂)労組がおこなった賃上げ争議などにたいしての積極的な援助、同様に紀南においては、一般合同労組の東牟婁郡四村の山本人造宝石労組の一九五七年以来くりかえされた賃上げ争議、観光地勝浦町の旅館女中によっておこなわれた一九五六年の待遇改善要求争議などにたいする積極的な援助など、枚挙にいとまがない。
 敗北におわったけれど、一九五三年、和歌山市有田交通(タクー)の労働者が、御用組合的な組合の行き方に抗して、賃金引上げ、賃金体系の改正、労働基準法をまもることなどを要求して、争議団を結成して闘争したとき、あるいは、那賀郡岩出町吉村製糸の労働者の組合結成を助けて(敗戦後まもなく吉村製糸労働組合は結成され、闘争もおこなっていたが、その後、いつのまにか消滅していた)罰金制、個人生活にたいする不当介人、労働基準法逮反を追求して人権闘争をおこしたときに見られた県地評の献身的な支援、一九六〇年のベースアップを要求した橋本市職組にたいする伊都労協の献身的な支援、田辺市における貝ボタン労組の結成と賃上げ闘争にたいする西牟婁地評の支援、一九四六年、貝ボタシの中で最大の企業である金浦ボタンで組合は結成され、闘争も、おこなったが、これも、いつの間にか消滅している)など、単に、僅かの例をあげたにすぎないが、拠点企業労組、官公労を中軸とした県地評、地区労の組織が、県下の中小企業労組を広く指導し、支援しているということのなかに、基幹産業労組と中小企業労組との共闘の基盤の強さを見ないわけにはゆかない。
和歌山県重要産業の一つである紡績業においては、日東紡労組海南支部、広支部、大和紡労組松原支部(御坊市)、大日本城維労組和歌山支部などが指導的な力となっている。和歌山市のメリヤス労組「染色労組連合」高野口町を中心とした伊都繊維労働組合などを結集して、「全紙同盟」の支部を作り、和歌山県労働戦線の統言阻む力として、全労系民労連に紆集しているが、大企業労組が、高野口の零細企業労組の結成にたいしておこなった支援も、一方では、忘れがたいものをもっている。前の参議院選挙で、全国区は社長、地方区は革新系候補をおすことを決定した大和新労組の弱さほ、自由労組(御坊市)の地区労加入を頑強に拒否し、統一でなく分裂の方向を示す面をもっているとはいえ、ここにも大企業労働者と、中小企業労働者の統一の基盤の存在を見るのである。日東紡海南支部のように、資本と妥協し、「歌声サークル」や「民青同」に加入した労働者を排除しようとする動きさえ示している組合幹部の主観的な意向にもかかわらず、紡績労働者である限り、労働者としての自覚にたって、民主統一戦線の戦列の中に、生きぬいてくることにたいして、確信をもつ。
東亜燃料、妙法鉱業所労組をのぞくと、地域の中小企業労働者にたいする支援の態勢は、現在、つよいとはいえない。けれども統一される根拠は、日本通運和歌山営業所が、大量の臨時工へ切り替えたことに示されているように、そして、労働者年たいする収奪が、いろいろな面から強化されているように … ILOの条約すらいろいろな点で、履行されていない。和歌山県においても、「賃金保護に関する条約」という結構な条約について見るに、賃金不払いにたいしてもつ労働者の債嘩より、国税、担保付き債権が優先するということで、一九四八年から四九年へかけての中小企業の崩壊期に、残されたところの割れた火鉢とさびついた火箸をかかえて、十年近くも会社敷地の片隅で生活している労働者すら見られ、その他労働基準法の諸条項も、次第に骨抜きの形で実施されている … 現在のアメリカ対日政策と国内の政治、経済政策の強行されていることを、基幹産業を中心とする労働者階級の統一戦線確立へすすんでゆく根拠と見るのである。
それは、スタンダード・バキュームの支配下にある東亜燃料労組が、初島町周辺における安保闘争の中核となり、下請企業を「構内労連」に結成し、これを地区労に加入せしめ、みづからも総評加盟の問題を討議するまでに成長していることのなかに示されている。住友金属、本州製紙の労組も、かつてそのような積極性を示していたのである。
      
二 労 農 担 携 P25

 <労農提携の基盤>  P25
和歌山県の県債をみわたすと、労農提携の基盤は、無限大である。すでにのべたところであるが、地域共闘組織の多くは、不十分であったとしてもこの労農提携の上に作りあげられている。
山村においては、零細農がそのまま山林労働者(伐木、造材、適材、植林、下刈等)であり、堕伐人夫であり、時としては、林道開設、保修などの土工に移行している。本宮山林労働組合が、全島大会で山林開放の必要を強調したことに示されているように、山林労働者と農民とは、直結している。そして、これらは失業者として、自由労組を結成しているのである。七・一八水害後の自由労組の結成が、このことを示している。他府県からきた山林労働者、木工との交流も、このなかで深まり、経験もゆたか覧っている。山村をでて、都会にでていった村の労働者も、帰村してあたらしい労働者的な感覚と知識を地域にうえつけている。
和歌山県の長い海岸線につらなる漁村をとって見ても同様である。半農半漁民を多くかかえ、この数カ年間、豊漁の朗報を耳にしない。紀北、和歌山市周辺の雑賀崎、田ノ浦、加太、海南市冷水、海草郡下津、初島、有田箕島町辰カ浜の一本釣りをはじめ、辰ヵ浜以北の底引き網、巾着網、日高郡から西牟婁郡へかけての夜たき網(今ジ、小サバ、小ムロ、イカ)ランプ網(サバ、アジ)西牟蓑のケンケン釣(カツオ、シビ)西牟婁から東牟婁にかけてのハエ綱(マグロ、カツオ)東牟婁郡、宇久井、西牟婁郡大島などの大敷網(マグロ、ブリ、サワラ)など、すべて不漁をかこっている。勝浦町、新宮市三輪崎を中心とした遠洋漁業(南方ばかりでなく、三陸沖までを含む)あるいは、三年ばかり前には、景気のよい話をもちかえったところの南
方白蝶貝採取船団も、不振の声をはなっている。
このような漁業不振のなかで、和歌山県の漁民は、海の上でなくて、陸の上で生活しているのである。いうまでもなく、仕事は仲仕か、土エか、失対事業登録日雇いであり、家庭での内職である。
日高郡・西牟婁郡の多くの零細漁民は(たとえば田辺市江川)冬期にはいって不漁をかこつ。この時期に、これらの漁民(引子、船子を主とする)は勝浦、新宮市三輪崎から、南方また三陸沖へ、漁業労働者として、多く出漁している。漁民、漁業労働者、仲仕、土工、は失業を一身のなかに直結しているのであって、山林労働者の場合とことならない。田辺市のメーデーに漁民が多数参加してきたのは、このような事実にもとづいている。そして同時に、遠洋漁業、仲仕、土工のなかで、労働者としての見識と経験を交流しているのである。
一例をあげて見よう。西牟婁郡串本町橋代は、戦前、遠洋漁業の中心、遠洋漁草分けの地としての名をほしいままにしていた。パイロットは、ほとんどこの地域からでていた。第二次大戦中、三〇屯級の船約三〇隻は、青壮年層の働き手とともに、看視船、輸送船として徴発され(なかには、ラバウルまでいっているものもある)ほとんど全員が海の藻くずとなったが、敗戦後、遠洋漁業の中心は、勝浦に移行し、橋代はいまさびれ切っている。古老の話しぶりのなかに、憤まんやるかたない卒直な感じを、人びとは、ただちに受けとることができるであろう。船をうしなったこの地の漁民は、江川の漁民とおなじように、勝浦か三輪崎の船(三〇~五〇トン)で漁業労働者として出漁する。ところが、このようななかで、橋代の青年団会議を船上で開くという叡智をつくりだすのである。そして陸へあがれば、仲仕、農民、失業者であり、自由労組の結成者でもある。労働者としての意識の交流が、県をことにする漁民のなかで、どのようにたくましく成長するものであるかを示している。
「木の国」の港、とくに田辺市以南には、材木の流れにつれて、沖仲仕が多い。主として材木の水場人夫である。旧日置町をたずねると、冬のさ中の干潮時、腰まで海水につかりながら、材木を水揚げしている女性の姿を見かけるだろう。このような沖仲仕の多くも、また零細な農民である。船の多いときは、近辺の農村をめぐって、必要な労働力を調達することを普通としている。和歌山県の零細な農家から、やはり季節的に、仲仕、土工に移行してゆくのである。
 電源ダム、防水ダムの建設で、河川による流筏(管流を含めて)が停滞し、機帆船による搬入が多くなっている。和歌山県の港をみると、和歌山港の竣深はかなりすすんでいるが(住友金属が最大の利益をうけている)下津港(東亜燃料、丸善石油の独占的な利用となっている)日高郡由良港(海上自衛隊の基地であり、大阪窯業など石灰石の出荷に若干利用されている)をのぞいて、良港をもたない。木材の機帆船による搬入、搬出は、河口が浅いため、潮の干満により大きな支障をうけ、どの船を先船とし後船にするかの慣行は、かなりの年期をいれた仲仕といえども、トラブルをおこすほど複雑である。日置町の水場人夫が、酉牟草郡周参見港、田辺市文里港に乗りつけたときは、その港の水揚、積荷の規則に従うことが慣例となっている。最近、北洋材の輸入が多くなるにつれ、水場人夫の移動は、かつてのように和歌山慧ら、田辺港にまで、その行動半径を拡大している。水琴人夫の労働者的な嘉の交流は、互いに流れゆくなかで作りだされているのであり、ここでも労農直結の形をとっている。労災保険、失業保険を要求して結成された日置港湾作業労働組合(水揚人夫)、さら早く、共産党と社会党との指導方針の不一致から、困難な道をたどったけれど古座川木場労働組合(西向水揚人夫)の例や、が結成されて、古座川木労連のー構成分子となったことを見ても、このことを示している。
 未解放部落に目を移して見よう。
和歌山県における部落民は、約五万人を数え、紀の川平野、日高平野の一部の部落をのぞいて、貧農が圧倒的に多い。もっとも和歌山市中枢部の部落その他、農地をほとんどもたないものも、若干見受けられるが、部落民の大多数は、貧農であると同時に土工、仲仕、失対事業登録日雇、その他雑業の日稼人である。たとえば、朝来村における共闘の場合、貧農出身の仲仕が有力な支柱であったし、日置水揚労働者の中にも、部落の貧農からでた、かなりの人を見受ける。御坊市の自由労組の八〇%り上を占めているのは、部落の失業者であり、西向水揚労働組合も、部落の半失業的な労働者によって作りだされたものである。解放同盟が、いろいろな地域と時点ではたした共闘の中での役割は、評価しようもないほど高いものであるが、貧農、土エ、仲仕、失業者などと直結した形をとっていることは明瞭である。
 労農提携の基盤は、きわめて広いことを知るのである。 P28
# by kokuminkyoutou | 2015-10-02 15:25
第Ⅰ章 和歌山県における統一戦線と共闘の発展

2 共闘の基盤とその根拠

二 労 農 提 携 のつづき

<労農提携の歴史的根拠>P28

労農提携の客観的な某盤があるということだけでなく、労農提携の歴史的な根拠をさぐると、いろいろな職種が、肉体的な意味で一身に結びついているとか、あるいは家庭の中で溶解しているとかの問題でないことがわかる。重要な点は、和歌山県において、農民層の分解が、ここ数カ年の間に、アメリカ帝国主義と日本の独占資本の収奪という条件を足場として急速に進行しているということである。土地価格の暴騰で、宅地への地目変換による耕地の減少もあるが、三、四反の耕作者が、かなり急速に減少していること(部落における貧農の轟地異却が日立つ)、その売却理由を農地委員会の形式的な資料によって見ると、借金返済のため、家計費補助のためなどが、重要なものとなっている。この農民分解が、和歌山県における農業経営の、次第に商業作物への移行を早めているなかで起っている点に注目する必要がある。紀勢西線で東和歌山駅を発車し、海草郡、有田郡、旦同郡を通過すると、車中の人は、あたらしく造成された柑橘畑を、山裾といわず平地の畑にも見受けるであろう。急速な造成なので、未成木の柑橘である。海草郡の奥地へ入ると柿、和歌山線で那賀郡、伊都郡を通過すると、同じような柿と柑橘の急速な造成におどろく。
最近においては、ビニール・ハウスの普及、自動緋転撒の普及、乳牛の導入など、西牟婁郡にいたるまで、かなり急速である。
 一方では、農地を売却して離農するものを多くだしている四反百姓の貧農層が広範に存在し、他方、一町以上の耕作農家が増大して、資金を投下しながら商業作物に移行してゆく。
 この傾向が、恒常的なものとしてみられる。耕作面積の増大は、現在の条件のなかでは、所有面積の増大と考えてよかろう。そして、この貧農層のなかで、農村プロレタリアートの活動が活発となり、労農提携が着実にすすんでいるのである。
 和歌山県における最大、最強の自由労組といわれる御坊市の自由労組の指導者の多くは、一九四九年、「県木労」が最大の統一的な力を発揮したときの日高支部の指導者であり、一九四九年、御坊市昭和製材の激烈な闘争ののち敗北した当時の指導者である。この自由労組に、部落の失業者が多数くわわっているところを見ると、このようなところで、貧農、貧漁民、土工、仲仕、失対事業登録日雇、部落民大衆などの広範な統一がつくりだされるということなのであろう。
 農地をすこしずつ拡大し、商業作物の栽培に移行しえた中農層は、どのような動きを示しているだろうか。
 敗戦直後、和歌山県においても、多くの町村で、急速な農民組合の結成をみた。要求の中心は、もちろん農地解放である。けれども、一九四七年、農地解放の実施以後、農民組合はほとんど消滅している。戦前、土地問題を中心とした和歌山県の小作争議で、最も激烈さを示した日高平野の農村、旧内原村、藤田村、野口村、湯川村、稲原村では(日高平野では、水平運動もまた盛んであり、多くの場合、小作争議の指導的立瘍を部落の小作農がもっていた)平場農地の解放をうけて、民主主義的諸道動から後退し、勤評蹄争においても、過去にもっていた闘争のエネルギーを失なっていた。
 これに反し、周辺農村における小作争議の激化にかかわらず、戦前農民組合の結成を地主勢力によってはばまれていた日高郡南部川村で……主要農産物である梅林の多くが、未解放となったため、農民の地位は、他村に比し、劣悪なものであった……一九五五年、はじめて農民組合が結成された。当時流行の旧地主の土地取りあげ、闇小作料を要求しての小作農にたいするいやがらせなどに抗して結成されたものであり、小作農はかりでなく自作農をも含んでいた。村の古老は、はじめて見る農民組合の結成にたいし、涙を流して喜んだといわれている。地主勢力の圧力にまったく屈服し、梅林の解放を殆んど受けなかった南部川筋平場の小作農民のなかで、農民組合が結成され、町議選で一名の共産党議員を選出し、あるいは戦前、周辺部落の水平運動、小作争議の盛んであったとき、ねむり込んでいた旧御坊町薗の部落が、現在、部落解放運動の主力のとなり、勤評闘争においても御坊市の中軸となっているのにたいし、反対に、かつての水平運動、小作争議の主力であった日高部の部落が、陥没地帯となっていることには、究明すべき問題を残している。
中農層以上は、商業作物への移行の道程で、肥培管理、品種改良、耕転の技術、暗きょ排水、肥料の配合、農剤の選択などについての、農業技術研究会結成へと主力を集中する傾向を示してきた。このようななかで、紀北から西牟宴郡にかけて、「愛農会」の結成が見られる。愛農会は、三重県に塾と農地をもち、精神的な訓話もあったようであるが、主として環業技術の改善を問題としていた団体である。那賀郡、海草郡、有田郡、日高郡にわたり、かなりの力をもっていた。また「ヤロビ」が紀北から、南部川村、白浜開拓団の中にまで浸透していったことも、おなじ現象と見られるであろう。紀北の那賀郡は、大阪、神戸、京都をひかえて、玉葱の産地として、大阪府泉南郡とともに、商業作物に依存し、農業技術についての研究会は、多くの農民をあつめていた。
 ところが、この「愛農会」の会員のなかから、農業問題についての革新的な層が分離しはじめ、西牟婁郡富田川平野の研究会は、早生野菜栽培、水田経営を中心とする農業経営不振のなかで、農民組合の結成を志向し、紀ノ川筋の研究会は、零細農家の離村、紀ノ川統合井堰の水利金の問題をめぐって、農民組合結成の必要を身近かなものと感ずるようになっていった。
 初島町の調査で、近辺の柑橘農家は、品種改良を含む農業技術教育にたいする要求を、中学校教育にたいして、鋭い形で提起していた。この点に異論はない。けれども、すでに、数カ年の歴史をもつ農業問題研究会が、壁につきあたって、農民組合の籠璧と足をふみだしているのである。県財政をみても、果実税の減額は、常に県議会で問題とされ、鉄道運賃割引きの要求も、また柑橘農家の声となっている。産業経済費のうちでの農業振興費、漁業振興費ともいうべきものは、お世辞にも多いとはいえないだろう。富農層をも含めた中農層の声は、かなり明確な形をとっている。
 農民が商業作物の栽培に移行するということは、古くからいわれていることであるが、そのことは、濃尾の旧慣保守的な考え方を変革してゆく。市況には敏感だし、口蒜改良にたいしても積極的だし、栽培技術、新しい農機具にたいしても敏感である。これは、国の政治や、県の政治、労働運動や教育にたいしても、鋭い感覚を必然的にもってくるということである。中農以下の層にたいし、農業基本法が締めつけの役割をはたそうとし、中農以上の層も、金融引きしめのなかで、困窮の度を深めようとしている。労働者収奪の政策と、農民収奪の政策との一貫したつながりが、農民自身にとって、身近かな問題となっている。
 表の占領政策を足場とした一連の経済政策、農業政策のなかで、労働者階級が窮迫し、農業の山朋壊と、小農民の窮迫がおこっている。労農提携の根拠が、歴史的につくりだされていることを知るのである。
 和歌山具においても、労農提携が、具体的な形をとって鋭く提起されたこともある。たとえば、一九五三年旧東牟要郡大島のアメリカ軍事基地建設反対闘争には、漁民、開拓農民の援助のため、同年七・丁八水害に咤その救済作美のため、多くの労働者、教員、医師、学生が、農山村の奥深くはいった。苦しい献身的な努力であったが、労多くして、みのり薄い結果となったのは、旧地主勢力(網元も含む)にたいする評価の点に尚題があったといえよう。このようななかにあって、和歌山県の「全農林」は、早くから労農提携の理解のうぇにたって、献身的な努力をつづけてきた。職種の特殊性にもよるが、供米問題、米麦の品質検査などにあたり、農民の最良の話し相手としての努力をつづけている。国鉄労組、教組をとっても、同じことを指摘することができる。
 ところが、他方、和歌山県における労農掟携の不十分なことも忘れてならない。
和歌山県は悪道の誉れがたかい。山間奥地への交通は、紀北においては南海電鉄(高野山へむかうもので、伊都郡橋本市を分岐点としている)和歌山竃軌(硯秦は南慧吼鉄に合併され、貴志谷への旧和歌山鉄道を倉                    
む)野上谷への野上鉄道(高野山のふもと長谷宅原へは通じていない)有田川中流への有田鉄道(鳥置城までであって、上流へは通じていない)旦口同川上流地域への竜神バス、南海バス、富田川近辺の明光バス、新宮、串本を中心とし、熊野奥地へ達している熊野交通をかぞえるにすぎない。地域に馴染み深い人の特権であろう
が、しばしば、走りゆくトラックをとめて、奥地への往復をしなければならないことがある。その私鉄の賃金引き上げ闘争は、広範な地域の農民の好感をうけることができなかった。運賃先ばらいの形をとっている定期券利用者に見られるように、私鉄は現金収入に依存している。ストライキが、経営者にたいし直接的な打撃を
あたえ、労働者側に有利な立場を保証することは、労働者的な感覚をもってすれば、直ちに了解できるであろう。それにもかかわらず、私鉄総連の和歌山県私鉄単組が、農村において低迷しているのは、労働者と農民との提携が確保されていないことを一面において示している。和教組、県城組、自治労連の組合員がよく口にする、一般的な教育の問題だとか自治行政の問題についての闘争では、職場周辺の農民との話しあいも比較的もちやすいが、賃金闘争、手当闘争においては、農民暦の支援をうるのに苦労するという苦心談も、また同様なことを示している。広範な農民層を含む、労農提携の問題は、和歌山県においても、その根拠をもちながら、十分な形で発展していないし、活用もされていない弱さが見られるのである。
 このようななかで勤評闘争がたたかわれ、段山村の多くの地域で困難な途をたどってきた。けれども、勤評闘争の経験が、労農提携の重要性を鋭く提起し、和教組の組合員、勤評闘争の地域協議会に参加した労働者、農民、部落民、小市民、がそれを肌で感じていることも、和歌山県におけるその後の運動が示している。竜神
村における労農提携のうえにたつ地域共闘の急速なもりあがり、旦局郡美浜村の自衛隊誘致にもとづく防潮林伐採反対闘争のための長期にわたる漁民との共闘の持続を見ればわかる。
 和教組が三十六年度予算に、十万円の労農提携賛を計上し、その支援のなかで、全県下的な農民組合が結成されようとしている。紀北においては、紀ノ川、有円川筋、旦口同平野の平場地域の農民を主体とし、紀南においては、山林労働者を主体としたものである。農民層が、自分達の要求を提起しながら、労働者と農民との政治的な立場の統一を見つけだし、作りだし、民主統一戦線への実践的な思想的な発展の芽をもった労農提携の場が、つくりだされているのである。民主統一戦線の核ともいうべき労農提携は、和歌山県において弱い面をもっている。そして、この点でも、たとえば拠点産業の住友金属労組が低迷し、工場拡張にともなう農地買収、保障の問題で、周辺農民層にたいして、あまり援助の手をさしのべなかったこと、工場誘致にともなう和歌山市の免税措置にたいし、市民が慎まんを示したとき、労組幹部が動揺したことや、煙害、工場汚水、鉱毒にたいする周辺農民の保障要求にたいし、東亜燃料、丸善石油、三菱妙法鉱業などの労組が、消極的な態度をとっていることなどにも見られるように、民主統一戦線の軸の中心が弱いという点を指摘しなければならない。

三 中小資本家との統一 P34

<圧迫される中小企業労働者>

 和歌山における地方産業には、中小零細企業が多い。どこでも見られることであるが、これら労働者の労働条件は、きわめて劣悪である。思いだしたようにしか摘発されるにすぎないのではないかという印象をうけるのであるが、労働基準監督署によって基準法違反の摘発がなされているのを見てもわかるように、婦人、年少労働者の深夜業、長時間労働、あるいは安全衛生などの点について、問題をもっている。一例をあげると、西牟婁郡富田川筋の準野喝石労働者の桂肺病続発にたいする摘発、高野口シール業における婦人労働者の深夜労働その他についての摘発、和歌山市捺染業における深夜業、長時間労働にたいする摘発などである。すでにのべたが、有田交通労組、吉村製締労組のストライキにも、基準法違反の問題がからんでいて、中小企業における労働条件の悪さを示している。中小企業における賃金水準の低さを具体的に示す必要はないであろう。和歌山県においても、失対事業登録旦展労働者より低いものが、中小企業に多いということを指摘するだけで十分であろう。
 これは、労働組合結成にたいする妨害や組合を結成することもできないほど労働者階級が弱いということに裏付けられている。高野口町の伊都繊維労働組合が、県地評、全繊同盟、革新的な学生などの支援で結成されたのは、最近のことに属し、旧山田村、旧岸上村の竹加工業、旧応箕村の人造真珠原玉捲き労働者は、未組織である。和歌山市のメリヤス業においても、労働組合の力は弱く、しばしば中絶している。椋相加工業の労働者も未組織であり、貝ボタンの労働者も、中絶していた組合を、一九五八年にいたり、ようやく再建したにすぎない。和歌山市の皮革業においても、和歌山皮革、吉村産業などに組合が結成されたが、押しつぶされ、県地評の支援によって結成され、やがて消滅していったが、和歌山県皮革産業労働組合の構成員は、皮革労働者であったが、失業している人びとの集団にすぎなかった。現在、ようやく皮革労働組合がつくられようとしているという段階にすぎない。そのほか、例示にいとまがない。これは、和歌山県においても、中小資本家と労働者の対立、矛盾が、激しいものであることを示しているのである。
 和歌山県木労の闘争にたいする資本の徹底的な圧力、敗北後における資本の分裂工作・・・日高支部では、賃上げ、手当などを、県木労から脱退すれば、県木労のたたかいとったものより上廻る線で支給するという口約束で、多数の組合を脱退せしめることに成功し、基幹とも見なされていた新宮支部でも、県木労の解決条件より一〇%上廻る線をだすという条件で、最大の単産であった「和新木労」を脱退せしめることに成功し(これは、その後、業主の度重なる違約を見て、再び新宮木労に復帰し、木労の中心的な力となったが、業主は製材業の不振を理由として製材所を閉鎖し、工場その他施設を、退職金がわりに労働者に提供した。その後、労働者管理となった製材所は、賃びき業として苦しい経営をつづけた)、日置川支部では、組合解散を組合決定とせしめることに成功した(数年後、組合解散によってえたものは、賃金引き下げ、労働時間の延長などにすぎなかったことから、一九四九年、組合を再組織して現在では、西牟婁地評支部の有力な支柱となっている)-に、典型的な形であらわれている。このような鋭い対立、相剋のなかで、中小企業労働者の闘争は展開され、県地評、地区労の支持をうけているのである。
 民主統一戦線は、中小資本をもまきこんだ、広大なものでなければならないが、その主力ともいうべき労働者階級と中小資本との対立、相剋、きわめて鋭いかたちであらわれているという現実を前にして、この問題をどのように考えたらよいのであろうか。

 <中小企業の現状と統-の根拠>P36

 中小企業の現状を見よう。和歌山県地方産業に見られる中小資本の多くは、景気循環のまにまに、時には活況を誇り、時には不況を訴えてきた。現在、どこにも見られるように、小企業はほとんど、下請賃加工業者となっている。中資本の多くも、若干の産業種別をのぞいて、大資本の系列化のなかに準備されている。中小資本は、景気循環のまにまに押しつけられる下請加工賃の切り下げに苦しんでいる。地域的に専業化している和歌山県の地方産業をみると、高野口町周辺のシール業者の大多数は、二、三台の織機をもち、僅か五、六の企業の下請賃織をおこなう状態となっている。製材業においても、新宮市、御坊市では、その地域の大製材業者に従属する賃挽業者を多くもち、長い不況のなかで、この関係は新庄、旧日置町、高地町、酉向町などの製材業中心地に波及している。和歌山市の皮革業においても、兵庫県旧花田村ほどではないが、二、三台の「太鼓」をもつにすぎない零細業者は、地区内の大きな企業の下請賃加工業者となっていて、ときたまおとずれる好況のときに、若干の原皮を仕入れて、皮をなめしているにすぎない。和歌山市三葛地域、海南市周辺のメリヤス業をとって見ると、これも農家の一室を改造して、若干の編機をそなえつけ、経済循環のまにまに、断続的に操業している賃加工業者にすぎない。
 若干、形をことにしているが、海南市の漆器業、野上谷の踪相加工業、旧山田村、旧岸上村の付加工業は、地域内の大きな問屋兼業主に従属している。これらの業種では、家族労働 -主人、主婦、子弟1を中心とした家内工業的形態をとるものが多い。
 ところが、地方産業におけるこれらの大きな企業、問屋の多くは、また阪神地区の問屋、商社に従属している。金融引き締めなどの場合、長期の手形をおしつけられ、その割引きに四苦八苦するということは、異口同音に発せられる言葉である。
 中小企業の問屋、大企業への従属は、敗戦後の長い一貫した経済政策 - 独占資本の育成、アメリカ帝国主義への資本の従属、これは、金融引き締め政策や、日ソ、日中との貿易制限、租税政策、物価政策などのなかに鋭くあらわれている - そのなかで、つくりだされたものである。現在の過度成長抑圧政策(社会や経済が、動物か植物であるのかという錯儀をうけて、ピンとこないし、成長をおさえるということも、理解で重ない。五カ年計画をできるだけ短期間に達成するよう呼びかけているソビエト、中国とは反対に奇妙なことだが、成長しすぎたといって、これを押えるのである) がとられるなかで、ますますこの傾向は強まっている
し、中小企業の倒産、事業閉鎖が、すでに和歌山県においても部分的にあらわれている。和歌山県地方産業の広く深く、鋭どい沈滞が、アメリカ帝国主義とこれに従属した日本独占資本の収奪的な経済政策のなかで起っていることを否定できない。
 これは、労働者、農民(富農層と見られるものをも含む)漁民(網元と見られる中小の漁業者をも含む)の窮迫をひきおこしているものと、同一のものである。ここに労農提携を核とした民主統一戦線の、幅広い発展上げと結びついていることが、明確に示され、その過程で、協同組合内部や業界での無力観でなく、政治的な視野を開いて、前進してゆく広い労働運動のなかにこそ、信頼しうる支柱があるという確信をもつであろう。
伊都繊維協同組合(高野口のシールを中心とする)黒江の漆器協同組合などのなかに、大きな企業、問屋とわかれて、零細企業の協同組織-別個につくるか、第二部として分離するかの相違はあるが-を作ろうとする動きのあることが、このことを示し、それは労働者との提携の途をいまよりもっと明瞭に示すことになろう。
和歌山県の地方産業は、撃別、中国、満州、朝鮮、台湾、樺太にたいし、強い依存度を示していた。和歌山市の皮革(原皮、製品とも)メリヤス(中国綿も考十はいっていた)捺染機械やカセイソーダ、硫酸、塩酸、中間染料などを中心とする化学工業(原料、警冒も)海南の漆器(材粁としてのウルシ)和傘(材料としての桐油)椋相加工(原料、警帖-漁網を主とするiとも)有田の蚊取線香や曹油(原料としての大豆)山村地帯での乾燥レイ茸、紀南漁村のフカヒレ、乾燥ナマコ、もっとちいさいところで、柑橘の中心地である有田郡の未解放部落の密柑の皮をほしたもの(漢方薬で「珍皮」という)や、落果したものを乾燥したもの(「コロ」といって砂糖で煮つめてみやげものにしていた)などをあげることができる。それらが、対米従属政策のなかで沈滞している。
製材巣主がもとめていた北洋材(ソビエト)が、和歌山港に輸入されはじめたのほ、約二年前のできごとであるし、軍需物資として中国への輸出を禁止されていた蚊取線香の禁がとかれたのも数年前のことであり、中国クルシ、満州大豆などの輸入の見通しが漆器業界、醤油業界に喜色をあたえたのは、日中友好協会の活動にょり、数年前にえた成果である。
一連の占領政策、経済政策のなかで、和歌山県の地方産業全体が、ときには好況の波に乗ったこともないではないが、全般的に沈滞していること、それが法則的なものであることに、民主統一戦線の広大な基盤と深い根拠を見るのである。P41
# by kokuminkyoutou | 2015-09-29 15:26

三 中小資本家との統一

第Ⅰ章 和歌山県における統一戦緑と共闘の発展
1 統一戦線へいたる共闘の展開
 一 共闘の形成とその問題点
 二 共闘の諸形態
2 共闘の基盤とその根拠
 一 基幹産業労働組合
 二 労農提携
 三 中小資本家との統一


2 共闘の基盤とその根拠


三 中小資本家との統一
  P34


<圧迫される中小企業労働者>

和歌山における地方産業には、中小零細企業が多い。どこでも見られることであるが、これら労働者の労働条件は、きわめて劣悪である。思いだしたようにしか摘発されるにすぎないのではないかという印象をうけるのであるが、労働基準監督署によって基準法違反の摘発がなされているのを見てもわかるように、婦人、年少労働者の深夜業、長時間労働、あるいは安全衛生などの点について、問題をもっている。一例をあげると、西牟婁郡富田川筋の準野喝石労働者の桂肺病続発にたいする摘発、高野口のシール業における婦人労働者の深夜労働その他についての摘発、和歌山市捺染業における深夜業、長時間労働にたいする摘発などである。すでにのべたが、有田交通労組、吉村製締労組のストライキにも、基準法違反の問題がからんでいて、中小企業における労働条件の悪さを示している。中小企業における賃金水準の低さを具体的に示す必要はないであろう。和歌山県においても、失対事業登録日雇い労働者より低いものが、中小企業に多いということを指摘するだけで十分であろう。
 これは、労働組合結成にたいする妨害や組合を結成することもできないほど労働者階級が弱いということに裏付けられている。高野口町の伊都繊維労働組合が、県地評、全繊同盟、革新的な学生などの支援で結成されたのは、最近のことに属し、旧山田村、旧岸上村の竹加工業、旧応箕村の人造真珠原玉捲き労働者は、未組織である。和歌山市のメリヤス業においても、労働組合の力は弱く、しばしば中絶している。棕櫚加工業の労働者も未組織であり、貝ボタンの労働者も、中絶していた組合を、一九五八年にいたり、ようやく再建したにすぎない。和歌山市の皮革業においても、和歌山皮革、吉村産業などに組合が結成されたが、押しつぶされ、県地評の支援によって結成され、やがて消滅していったが、和歌山県皮革産業労働組合の構成員は、皮革労働者
であったが、失業している人びとの集団にすぎなかった。現在、ようやく皮革労働組合がつくられようとしているという段階にすぎない。そのほか、例示にいとまがない。これは、和歌山県においても、中小資本家と労働者の対立、矛盾が、激しいものであることを示しているのである。
 和歌山県木労の闘争にたいする資本の徹底的な圧力、敗北後における資本の分裂工作1旦口同支部では、賃上げ、手当などを、県木労から脱退すれば、県木労のたたかいとったものより上廻る線で支給するという口約束で、多数の組合を脱退せしめることに成功し、基幹とも見なされていた新宮支部でも、県木労の解決条件より一〇%上廻る線をだすという条件で、最大の単産であった「和新木労」を脱退せしめることに成功し(これは、その後、業主の度重なる違約を見て、再び新宮木労に復帰し、木労の中心的な力となったが、業主は製材業の不振を理由として製材所を閉鎖し、エ場その他施設を、退職金がわりに労働者に提供した。その後、労働者管理なった製剤所は、賃びき業して苦しい経営をつづけた)、日置川支部では、組合解散を組合決定とせしめることに成功した(数年後、組合解散によってえたものは、賃金引き下げ、労働時間の芸延長などにすぎ
なかったことから、一九四九年、組合を再組織して現在は、西牟婁地評支部の有力支柱となっている)…に、典型的な形であらわれている。このような鋭い対立、相剋のなかで、中小企業労働者の闘争展開され、県地評、地区労の支持をうけているのである。
 民主統一戦線は、中小資本をもまきこんだ広大なものでなくてはならないが、その主力ともいうべき労働者階級と中小資本との対立、相克の中で、きわめて鋭いかたちであらわれているという現実を前にして、この問題をどのように考えたらよいのであろうか。

 <中小企業の現状と統一の根拠>

中小企業の現状を見よう。和歌山県地方産業瞥見られる中小資本の多くは、景気循環のまにまに、時には活況を誇り、時には不況を訴えてきた。現在、どこにも見られるように、小企業はほとんど、下請賃加工業者となっている。中資本の多くも、若干の産業種別をのぞいて、大資本の系列化のなかに準備されている。中小資本は、景気循環のまにまに押しつけられる下請加工賃の切り下げに苦しん
でいる。地域的に専業化している和歌山県の地方産業をみると、高野口町周辺のシール業者の大多数は、二、三台の織機をもち、僅か五、六の企業の下請賃織をおこなう状態となっている。製材業においても、新宮市、御坊市では、その地域の大製材業者に従属する賃挽業者を多くもち、長い不況のなかで、この関係は新庄、旧日置町、高地町、酉向町などの製材業中心地に波及している。和歌山市の皮革業においても、兵庫県旧花田村ほどではないが、二、三台の「太鼓」をもつにすぎない零細業者は、地区内の大きな企業の下請賃加工業者となっていて、ときたまおとずれる好況のときに、若干の原皮を仕入れて、皮をなめしているにすぎない。和歌山市三葛地域、海南市周辺のメリヤス業をとって見ると、これも農家の一室を改造して、若干の編機をそなえつけ、経済循環のまにまに、断続的に操業している賃加工業者にすぎない。
 若干、形をことにしているが、梅南市の漆器業、野上谷の踪相加工業、旧山田村、旧岸上村の付加工業は、地域内の大きな問屋兼業主に従属している。これらの業種では、家族労働 -主人、主婦、子弟を中心とした家内工業的形態をとるものが多い。
 ところが、地方産業におけるこれらの大きな企業、問屋の多くは、また阪神地区の問屋、商社に従属している。金融引き締めなどの場合、長期の手形をおしゆけられ、その割引きに四苦八苦するということは、異口同音に発せられる言葉である。
 中小企業の問屋、大企業への従属は、敗戦後の長い一貫した経済政策 - 独占贋本の育成、アメリカ帝国主義への資本の従属、これは、金融引き締め政策や、日ソ、日中との貿易制限、租税政策、物価政策などのなかに鋭くあらわれている - そのなかで、つくりだされたものである。現在の過度成長抑圧政策(社会や経済が、動物か植物であるのかという錯儀をうけて、ピンとこないし、成長をおさえるということも、理解できない。五カ年計画をできるだけ短期間に達成するよう呼びかけているソビエト、中国とは反対に奇妙なことだが、成長しすぎたといって、これを押えるのである) がとられるなかで、ますますこの傾向は強まっているし、中小企業の倒産、事業閉鎖が、すでに和歌山県においても部分的にあらわれている。和歌山県地方産業の広く深く、鋭どい沈滞が、アメリカ帝国主義とこれに従属した日本独占資本の収奪的な経済政策のなかで起っていることを否定できない。
 これは、労働者、農民(富農層と見られるものをも含む)漁民(網元と見られる中小の漁業者をも含む)の窮迫をひきおこしているものと、同一のものである。ここに労農提携を核とした民主統一戦線の、幅広い発展も根拠を見るのである。
このようななかで、和歌山県における中小企業労組の闘争は展開され、合同労組の結成もすすめられてきたのである。一九五一年の漆塗労組(家内労務者を主体としていた) の和歌山市繁華街でのハンストを交えた争議は、きわめて低い下請料金の引きあげで妥結した。一九五六年、和歌山合同労組襖材支部は県地評をあげての支援をうけ、業主各個との交渉の形で、一応要求を貫徹したにもかかわらず、のち、業主の違約が続出して」終局的に見ると敗北した。製材労働者は、最近、各河川筋ごとの交渉形式をとっているが、賃上げ、手当要求の闘争において、要求からほるかに低い線をおしっけられ、「伊都繊維労組」の諸闘争も、従来「祝儀」として現物給付(たとえば下駄など)されていた年末手当を、手当の形でかちとることに成功したものの、労働者の要求を満足させているものではない。               
 これらの闘争のあとをふりかえって見ると、業主側における協同組合の組織形態が、厚い壁になっているようにおもえる。大企業は、問屋をもかね、同時に労働者をも雇用している。零細な下請賃加工業主も、また、少数の労働者を雇用し、業種によっては、家内労働者的な職人をかかえている。このような仕組みのなかでの協同組合にたいし、労働組合は交渉をつづけてきたのである。零細企業の労働者が未組織で、闘争に参加しなかったという条件もあるが、組合の要求した賃上げ要求は、常に賃金と下請加工賃との競合の形で提起された。一般化していえば、労賃引き上げ要求をうけた協同組合の中で、零細な下請賃加工業主が、現行加工賃で、より多くの賃加工をやりたいという要求を提起する仕組を、協同組合はもちつづけている。一例をあげるにとどめるが、一九五三年の「和新木労」 (塩合は新宮木労から脱退していたが、業主は協同組合の有力な一点であった)の賃上げ年末手当争議に、「賃上げするほどなら、′製材を賃挽にだす」と切口上をのべたことに、示されている。
中小零細資本とそれに雇用されている労働者とは、過酷な収奪のなかで鋭く対立している。下請企業化した中小零細資本は、親企業から過酷な下請賃を押しっけられ、不況ともなれば、遠慮することもなくその関係を切断されている。その下請賃加工業者が、協同組合の中で統一されているのである。
下請企業は長い日本経済の歴史のなかで、そして労働者、農民のカやその提携の弱かったなかで、大資本にたいする従属を最良で賢明な企業保全の道と考えてきた。客観的とも見られる政治的、経済的従属関係を反映して、従属観、無力観が、現在も中小資本にはつよく見られる。現在、収奪関係は、強化され、問屋、繋企業と下請企業との矛盾、対立を深めながらも、協同組合を構成して融資そのたの点でも常に不利な立場にたたされている。
 下請賃加工業となっている多くの零細業主は、長い間の賃労働をへて、独立業主となったものである。個々の労働者の、まちわびていた長い夢であったに相違ないことはわかる。現在でも、多くの業種にわたって、独立業主になりあがることを、最大の目標と考えている労働者の多いことを、活動家は語っている。ところが、長い望みをかなえた…自分の汗の結晶はかりでなく、親戚一統からの借金を集め、自己の労働経験をそれに結びつけたものである…その結果は、中小企業にたいする融資を、大きな企業、問屋によって∵万的に独占され、市場にたいする辛がかりを奪われ、労働賃金と競合する形で、過酷なまでの加工賃をおしつけられる下請加工業者にすぎないのである。低廉な加工賃を労働者、あるいは労働者あがりの業主白身の肩にせおうということであろう。零細業主の多くが、賃労働者の出身であり、賃加工業であることは、零細業主を一翼に含む民主統二戦線結成の基盤であり、中小企業が賃加工業主として系列化されてゆく、現在の経済政策の展開をその根拠であると考える。
ある業種における労働者の統一的な闘争が進展するなかで、労働貸金、手当の引きあげは、下請工賃の引き上げと結びついていることが、明確に示され、その過程で、協同組合内部や業界での無力観でなく、政治的な視野を開いて、前進してゆく広い労働運動のなかにこそ、信頼しうる支柱があるという確信をもつであろう。
伊都繊維協同組合(高野口のシールを中心とする)黒江の漆器協同組合などのなかに、大きな企業、問屋とわかれて、零細企業の協同組織-別個につくるか、第二部として分離するかの相違はあるが-を作ろうとする動きのあることが、このことを示し、それは労働者との提携の途をいまよりもっと明瞭に示すことになろう。
和歌山県の地方産業は、撃別、中国、満州、朝鮮、台湾、樺太にたいし、強い依存度を示していた。和歌山市の皮革(原皮、製品とも)メリヤス(中国綿も考十はいっていた)捺染機械やカセイソーダ、硫酸、塩酸、中間染料などを中心とする化学工業(原料、警冒も)海南の漆器(材粁としてのウルシ)和傘(材料としての桐油)棕櫚加工(原料、製品…漁網を主とする…とも)有田の蚊取線香や醤油(原料としての大豆)山村地帯での乾燥シイ茸、紀南漁村のフカヒレ、乾燥ナマコ、もっとちいさいところで、柑橘の中心地である有田郡の未解放部落の密柑の皮をほしたもの(漢方薬で「珍皮」という)や、落果したものを乾燥したもの(「コロ」といって砂糖で煮つめてみやげものにしていた)などをあげることができる。それらが、対米従属政策のなかで沈滞している。
製材業主がもとめていた北洋材(ソビエト)が、和歌山港に輸入されはじめたのは、約二年前のできごとであるし、軍需物資として中国への輸出を禁止されていた蚊取線香の禁がとかれたのも数年前のことであり、中国ウルシ、満州大豆などの輸入の見通しが漆器業界、醤油業界に喜色をあたえたのは、日中友好協会の活動により、数年前にえた成果である。
一連の占領政策、経済政策のなかで、和歌山県の地方産業全体が、ときには好況の披に乗ったこともないではないが、全般的に沈滞していること、それが法則的なものであることに、民主統一戦線の広大な基盤と深い根拠を見るのである。
# by kokuminkyoutou | 2014-09-06 18:05