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国民教育運動と共闘の展開の紹介


by kokuminkyoutou

激流に抗して


三 激流にこうして
P131
<行政の反動化>

 一九五五年11月保守合同が行なわれた自由党が結成された。和歌山県では、小野知事が入党した。県会議員も多数入党し、県会では、遂に自民党が絶対多数を占めるにいたった。 
 この頃から、県行政、県教育行政の反動化が顕著になってきた。西川事件を契機として生れた和歌山県同和問題研究委員会は、一九五六年九月「同和委員会」と改称、調査研究機関の性格をほとんど失ってしまって、同和行政の一翼をはっきりになうことになった。すでに同和問題研究委員会は発足以後次第に性格を変えていたが、同和委員会と改称するにおよんで、同和問題研究委員会以来の解放同盟との対立は一層激化した。
 この年、新教育委員会法が施行され、教育への官僚統制・権力支配が著しくなってきた。たまたま十月十九日任命制教育委員会において、九月六日の西牟婁郡指導室栃崎主事の、田辺市における差別裁判抗議集会の行動は、行過ぎであるとの、小山教育委員の発言から、県教育行政の反動化に反対する部落出身の責善教育担当主事が一致して反発し、県教委をゆるがせ、翌年四月責善教育と解放運動を統一しょうとする和歌山県責善教育指導方針(案)を出させるに至った。県教組・高教組・県職・教育庁職組県教育行政の反動化を一斉に攻撃し、四者共闘が結成された。しかし解放同盟と五者共闘を組むかどうかはかなりもたついたのであった。
それでは栃崎主事はどのような行動をとったのだろうか。一九五五年十一月九日西牟婁郡日置町坂本部落の青年数名が差別者をなぐりつけた事件に関し、田辺簡易裁判所は罰金刑を課した。九月六日解放同盟は田辺市で***差別裁判抗議集会』を開いた。この集会で栃崎氏が宣言文を読んだのであるが、この行動にたいする小山氏の発言をめぐって前年小山氏が新庄事件に、一九五五二月十三日に紀伊民報に『責善教育の在り方』
と題して発表した論文に差別性があるとして解放同盟から追及されるにいたった。小山氏は紀伊民報の経営者である。
解放運動はこの日置差別裁判事件を契機として燃え上ってきた。一九五六年九月二十三日解放同盟朝来支部は請願書を朝木村当局・村議会・村教委に提出した。そして十二月一日には町長(九月三十日生馬村と合併富田川町となる)と解放同盟朝来支部連名で、県教委に要求書を提出した。この十一月三十日、十二月一日朝来中学校で県教委主催の責善教育研究会が開催される筈であったが、教育費三割削減のため一人の先生も参加し
なかった。こうした県教組の動きとタイアップして、要求書が提出されたのである。当時有田郡吉備町の五稜病院では、開設以来しばしば差別事件があったが、一九五六年九月二十四日協議会が開催された。この病院は県立病院であったので、十月一日対県交渉が開かれた。十月八日には県当局に対し吉備町庄二部を中心とする大衆動員による抗議集会が開催され、病院の民主化が県当局から約束されるにいたった。
 この事件に派生して湯浅小学校事件が起った。同校坂本教官が年休をとって九月二十四日の全員協議会に出席しょうとしたところ、絞長が許可しなかったことが問題化したのである。
 日置裁判事件・五稜病院事件・湯浅小学絞事件・小山教育委員を背景として各地に決起大会が持たれ、湯浅小学較事件を契機として、各都市に部落出身教官による郡市の組織ができることになった。この組織は勤評闘争以後に閉鎖主義が自己批判され、一般教官をも包含して和歌山市・那賀郡では部落(問題)研究会に発展した。
 米騒動を契機として一九二〇年度から部落に地方改善事業が行なわれるようになっていたが、解放同盟は統一戦線の立場から予算を地方改善事業費として組むことは、部落民対一般民の対立を深めるという立場から、一般行政費のなかで、部落にたいする予算を組むことを要求して、一九五六年十二月六日県議会へ請願書を出し、十二月二十一日県庁へデモを決行した。 しかし一般民と統一戦線がすっきり組まれていなかったことは、五者共闘のもたついたことからもうかがえる。 
              
<日高農地事務所事件> P133

 官僚統制・権力支配が著しくなるとともに、行政当局による差別事件が頻発した。
一九五七年六月、日高農地事務所差別事件確認会がもたれ、数年来差別されていたことが明るみに出された。
そして八月五日御坊市で『差別行政糾弾和歌山県連臨時大会』が開催されるにいたった。この頃徹坊土木出張所においても職制を利用して部落出身者に投票を強要した事件が問題化した。
 この日高農地事務所事件・御坊土木出張所事件と同じ頃有田郡では、吉備高校事件が起った。吉備高校における責善教育アンケートにからんで、部落出身の女生徒が自殺するという事件である。この生徒はかねて盗難事件にうたがいをかけられていたのであった。彼女は部落出身ではあったが部落には居住していなかった。彼女はアンケートによって部落民であることを知ってショックをうけたのではなかろうか。案外部落出身の生徒は、白分が部落出身であることを知らない。両親も、・兄弟も、近隣も、先生も、教えない。しかし何らかの機会に、特に、就職・結婚という場合にはいやおうなしに知らされる。こうしてショックをうける。学校では、不用意なアンケートが行なわれたり、さわらぬ神にたたりなし、といった態度がとられる。部落問題は、深刻であるにもかかわらず、国民のものになっていない。また部落では、壮年層と青年層とにずれがでてきている。 あれやこれやで、解放運動指導者のあせりも生まれる。
 日高農地事務所事件・御坊土木出張所事件では、日高郡に二二者共闘が組織された。この共闘は組合員にその意義が十分浸透したとはいえなかったが、統一戦線の萌芽として意義深いものであった。しかし七・一八水害後部落に増加した土建業者を中心に、御坊には社会問題研究会という融和団体が出現、勤評闘争では部落の分裂に各地で動いたのである。
分裂に各地で動いたのである。 

 <解放同盟と県教組・高教絶との共闘>

  解放同盟は、教員の政治活動禁止(一九五四年)、任命制教育委員会の発足(一九五六年)という雰囲気を見て、教育が再びおかみのものになる危険を感じていた。 かの一九五大年十一月三十日、十二月一日西牟婁郡朝来中学校の責善教育研究会において解放同盟が、県教組・高教組とタイアップしたのは、教育の反動化を敏感に感じたからであった。
 教育をおかみのものにしてはならないという部落民の父母の願いと、教育の官僚統制、権力支配をねらう勤務評定反対闘争とが結びつく必然性が、解放同盟・和教組・高教組の指導の下に生まれてきた。 一九五八年二月六・七・八日県教委が新宮市で開こうとして責善教育ワークショップを県教組・高教組がボイコットすることができたのは、和教組・高教組・解放同盟・紀南労協の共闘の力であった。労働者の父母も教育をおかみの
ものにすることを是認できない。また教育の、官僚統制・権力支配をねらう勤務評定を実施しょうとする県教委の態度に部落民の父母も、労働者の父母も疑惑を感じていた。              〉
 おかみの教育の被害者は労働者の子弟である。労働者のなかでも部落民の被害は甚大である。教育の機会均等が叫ばれても事実はどうだろうか。教育の反動化をひしひしと感じた部落民の父母が、解放同盟の指導のもとに勤務評定にたいして、自分自身の問題として「勤評は責善教育を阻害する」というスローガンを掲げたことは、勤評の政治的側面をしっかりつかんでいなかったとしても、教育をおかみのものにしてはならないという悲願をこめたものとしてうけとるならば、このスローガンは十分に理解できる。
 こうした情勢のなかで二月八日伊都郡原田支部が結成された。従来紀北には解放同盟の実質的な支部はなかったが、ここではじめて支部ができたわけである。那賀郡打田支部も原田支部につづいて四月八日結成された。
 五月十三日には、二月九日の勤評反対県民会議で結成を確認しながら、そのままになっていた七者共闘を発足させることになり、解放同盟は和教組、高教祖とともに、七者共闘の主力となってたたかったことは、衆知のとおりである。
 五月二十九日県教委の指導主事が全員勤評反対を表明したが、これは責善教育担当指導主事のつきあげがあったからである。解放運動・貴善教育の指導者はもっともしいたげられたものとしで、はっきりした権利意識をもって、ことにあたることができたのである。
 解放同盟は六月五日の第一波闘争にも、六月二十三……二十五日の第二波闘争にも九月十五日の全国統一行動にも組織をあげてたたかった。解放同盟の支部のない部落でも、岸上・南口・須谷(元河原)・北湊・住吉等のように解放同盟に同調して同盟休校を行なったところもあったことに注目すべきであろう。しかし第一波闘争にあたっては有田郡吉備町奥徳田では勤評賛成の逆ストが行なわれた。こうした反解放同盟的な動きは行政側のテコ入れが行なわれるようになると次第に活発化し、第二波闘争を契磯として反解放同盟系の団体が各地にできるようになった。各地の社会問題研究会、和歌山の文化友の会、朝来の信和会等がそれである。(P135)
 とにかぐ第一波、第二波当時の解放同盟は脚光をあびていた。地教委で勤評反対声明を出したところも、解放同盟の支部があるところが多かった。しかし県教組・高教組の組合員にすら、活動家は別として、独走のきらいのある解放同盟との共闘に懐疑的な者もかなり多かった。初期における解放運動・責善教育の部落第一主義にたいする反感も拭い去られてはいなかった。「勤評は責善教育にプラスかマイナスか」という論議は、勤評の本質からちょっと的がはずれ、民主統-戦線の強化という見地より解放同盟のためという見地が強く出ている嫌いがあった。こうしたなかで行政側のテコ入れがあったのであるから、部落と一般との分裂、解放同盟と反解放同盟との分裂は起らざるを得なかった。こうした情勢のなかで、七月十六日、和歌山市民会館における『部落解放第六回県連大会』が行なわれた。大会議案は「観念的な差別糾弾闘争に走りすぎてたたかいのもっとも基本である土地と仕事を中心とする部落民の生活と市民的権利の保障にたいする行政要求闘争を大衆的にたたかうことを怠たった」と自己批判し「支部分担金の大部分は各市町村自治体の委託事業費から捻出されたものであり、闘争資金カンパは場あたり主義的なものであった。」と前途多難を警告している。権力はいざとなれば委託事業費などは打ち切ってしまう。また、自治体に活動家が迎えられ、かえって、ミイラ取りがミイラになった者も少なくなかった。勤評闘争は、「生活と市民的権利の保障に対する行政闘争」には政治的・思想的裏付がなければならないことを自覚させた。勤評闘争以後解放運動の指導者は、政治的・思想的にはたしかに成長した。
 <拠点闘争>
われわれはここで旧朝来村大谷の拠点闘争をふり返って見よう。
 旧朝来村大谷の解放同盟は、和教組第一波闘争・第二波闘争を同盟休校をもってたたかった。しかし朝来村差別事件以来くすぶっていた反解放同盟的行動は、行政側のテコ入れによって表面化した。岩本馬市氏、岡崎芳雄氏等は七月五日要望書を提出、そして信和会を結成、会則は八月五日から実施されるにいたった。このような情勢のなかで上富田町(三月三十一日上富田町と富田川町と合併、上富田町発足)教委は前言をひるがえし、「勤評には反対だが勤評の事務をおこなう」というようになったので共闘会議の追及をうけ「一方的にはやらない」と約束した。ところが九月十二日になると「勤評反対・事務拒否」の決議を白紙に返すにいたった。九月十四日、教組・解放同盟はハンストに突入、十六日夜から町教委と団交、十七日午前五時過ぎ、「勤評の是非を研究して結論をだすまで、実施しない」という言質をとって一応の解決を見た。しかし十月三日町議会は勤評反対の決議をひるがえし、旧朝来村出身議員五名の反対を押し切って、勤評賛成を決議するにいたった。
 十月六日解放同盟は総決起大会を開き、共闘会議にはからず十月八日から同盟休校に入った。上富田町差別行政糾弾闘争経過報告には「最初同盟が同盟休校に入った時、小中学はたじろぎ、動揺を来たした。労働者居住地協議会は何等の動きもない。」とある。解放同盟の怒りと孤立化がうかがえる。しかし解放同盟には、組織を維持するためにも、同盟休校に入らざるを得なかった理由があったようだ。大衆団体としての解放同盟には、労動組合とことなった性格がある。部落民の怒ほ激しい。こうした怒りを民主統一戦線に十分組織できなかったところに、解放運動の欠陥があったわけだ。
 この闘争について「差別行政糾弾闘争の反省と総括」には「中立的な立場にある者や多少とも動揺している者を完全にわれわれの側に結集できなかった。青年団や婦人会の民主的団体をわれわれの側にたたすことができず、共闘体制が不十分」だったとのべている。
 とにかく大谷部落は勤評闘争の一拠点として有田郡吉備町庄二部と共に大きな役割を果した。しかしこのなかから部落が真っ二つに割れるという事態が起った。こうしたことは一九五五年頃から、保守革新の対立が明確化してきたという日本全体の傾向のあらわれでもあった。
 勤評闘争以後、旧朝来村大谷の解放同盟への圧力はますます加わっている。就労をめぐっての問題もある。なかんずく信和会が壇家を割ったことは、問題を私生活に持ちこむことになった。
一時は親子・兄弟・親せきが口をきかなくなったこともあったといわれている。しかし統一への方向はじょじょにすすんでいる。解放同盟の指導者も民主統一戦線の樹立に力をそそいでいる。地区労を中心として、居住地会議の再建ももくろまれている。大谷部落の指導者は行政側のテコ入れを身をもって体験して、対米従属と軍国主義化の途を歩む独占資本とその政府が、部落民の敵であることを認識したといっている。
<解放運動の再生>
一九五九年九月十九1二十日「部落解放県連大会」が田辺市〝もとしま旅館〟で開催された。
 「一般運動方針」にほ「有田郡の二、三の支部をのぞいて、居住地における部落民の生活の安定と権利の保障を自治体に要求し、それを確保するたたかいを組むことに困難な状態にある。」とあり、また「今まで、部落解放運動に共鳴し、協同するかに見えていた、県や市町村当局が、完全に自民党や岸政府の忠実な下僕として、われわれの敵として露骨に本性をむき出しにし、今まで部落解放にくまれていた運動助成金を削除、あるいほ削減してくるにおよんで、われわれは、まったく手も足もしばられたように組織的な活動すらできなくなってしまった。」とある。
 それでも第七回大会以後婦人部は二回にわたって部落婦人集会を成功させた。また北谷正氏が中心となって高教姐の協力のもとに行なった「人間みな兄弟」の上映活動は解放運動に新しい分野を開くものとして評価されている。
 こうしたなかで中絶していた県連大会が一九六一年五月十三-十四日、橋本市立橋本小学校で開催されるにいたった。二年前の〃もとしま旅館〃には百名ばかりの参会者しかなかったが、橋本小学校には三百名の参会者があり、解放運動は、一時的停滞を脱して再生のきざしを見せ、民主団体とともに請願運動に取組むにいたったのである。
 勤評闘争以後の激流に抗して、解放運動は民主統一戦線の意義、政治的・思想的闘争の意義を自覚したのである。こうした解放運動の再生はイデオロギー闘争としての責善教育を再生させる源動力ともなっている。(p139)

<「3 和歌山県の積善教育」につづく>
by kokuminkyoutou | 2014-06-04 14:38