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国民教育運動と共闘の展開の紹介


by kokuminkyoutou

3 和歌山闘争のはらむもの

第Ⅱ章 和歌山県における勤評闘争

3 和歌山闘争のはらむもの   

一 たたかいの性格
P72

′<三十六県めのたたかい>

 和歌山県知事、小野真次氏は六月九日付をもって、全県民に「勤務評定について、県民の皆様へ」というアッピールをしたが、そのなかには、つぎのような言葉がある。                    
「全国ではすでに三十九県が実施しているのであり、しかも、三、四県を除いては、至極平穏のうちに解決しております。」(傍点筆者)
 事実また、教育委員会が流したビラのなかにも、「全国で大部分の府県が実施ずみ、本県は三十八県め、残るはわずか七府県」という小見出しがついており、そこでほ、「勤務評定は、すでに全国の大多数の都県が実施しており、本県が実施をきめたのは三十八番めで、高知県がこれにつづき、あと残されているのはわずかに七府県だけです。」と書かれている。いかにも、全国の教師は良識があるのに、和歌山県の教師だけが不ていのやからがそろって騒ぎたてているのだといわんばかりである。ところが、面白いことに、県教育委員会が出した「和歌山具における勤務評定反対闘争の経緯とその概要」というパンフレットを読んでみると、五八年八月十一日現在での全国の勤務評定実施計画決定状況が一覧表になっており、それによると、和歌山県の実施決定は全国で三十六番めということになっている。だから知事も、県教委も、どうしたわけか二、三県ゴマ化して県民にアッピールしたことになる。しかも、県教委のごときは、大部分の府県が実施ずみ(実際は実施計画決定ずみ)などとまったく事実に反することを書いて県民を欺いたといわねばならぬ。
 だが、こうしたデマゴギ一は、いまさらことあらためて問題にするほどのことはないであろう。問題は和歌山闘争が発火点に達した時点は、すでに全国的には勤評闘争が守勢の体制に追いこまれていたという事実である。日教組が五七年十二月、「非常事態宣言」を発し、全組織をあげてのたたかう方針を出していたにもかかわらず、勤評闘争は、各府県段階で各個撃破を受けてきていたといえる。もとより、全国の仲間が、何の抵抗もなしに、勤評実施決定を許してきたというのではない。小野知事とともに、三、四の府県を除いては、至極平穏のうちに解決してきたなどと信ずる者でもない。全国の仲間たちの苦しい闘争、とくに愛媛、東京、福岡のたたかいがどれだけわれわれを励まし、貴重な教訓を与えてくれたかは測り知ることができない。
 和歌山闘争の意義は、これらの貴重な経験に学びながら、過去十数年蓄積してきた組織の全能力をふりしばって、すでに守勢に追いこまれていた勤評闘争を攻勢に転じ、府県段階でのたたかい、さらにそれにたいする全国的支援といったたかいをこえ、文字通り、全国民的な運動へ転化させる機縁をあたえたという点にあったといわねばならぬ。いいかえれば、すでに、東京、福岡の仲間への弾圧必至という暗い情勢のなかで、ふたたび安易な条件闘争論が頭をもたげはじめようとしていたとき、和歌山闘争は、勤評闘争の前途に希望の光を点じ、高知闘争とともに、勤評闘争を、たんに教師のたたかいのワクをこえて、全労働者階級を中心とする国民的なたたかいへと発展させる有力な支柱となりえたということである。八月一五日、北は北海道から南は九州のはてまで、四七、〇〇〇人の働く仲間の代表が、和歌山県に集り、「勤評反対、民主教育擁護国民大会」がもたれた。大会会場正面にすみくろぐろとかかれた「一切の民主精力を結集して、勤務評定に反対しょう」というメインスローガンは、まことにこの大会の実態にふさわしいものであった。愛媛にはじまった勤評闘争は、今や、全労働者、全国民の問題になりつつあることを、大会に参集した人びとは、おのれの目で見、ハダで感じとることができたのである。
 大会後もたれた、和歌山県はじまって以来の大デモ行進は、右翼も、警察も、何らなすすべのない隊伍堂々たるものであった。
 このような全国の仲間たちの力強い立ち上りは、そのまま九・一五、全国統一行動へと、もりあがっていったのである。
 勤評闘争のなかで結集された労働者階級を中心とする国民的な共闘の力と組織は、つづいておこってきた警職法闘争を短期間にもりあげ、一きょにこれを粉砕する強力な基盤となったのである。さらにまた、この力と組織は、あの日本国民の歴史的安保闘争へとますます拡大発展し、民族民主統一戦線の力強い結成の方向へとすすんでいるのである。

 <清算主義的評価の危険>

 もとより、このような成果が、並み大抵の努力でえられるものではない。それは、のちにみるように幾多の過誤と苦悩にみちた過程であった。だが、そうであればあるほど、和歌山闘争が果した歴史的な役割とその意義は明確につかまえられなければならない。その構極的な意義をみずして、「和歌山闘争は間違っていた」「幹部の大量首切りを出すようなたたかいは間違いだ」と主張することは、問題の一面のみを拡大して強調し、今後の闘争の発展に水をさす以外の何ものでもない。九・一五闘争以後、東京都の長谷川提案や神奈川勤評、長野勤評といった一連の動きに代表される条件闘争派がふたたび力をもちあげ、日教組内部の良識派としてマスコミの賛辞をあびるようになった。
 だが、考えてみようではないか。和歌山、高知の文字通り血みどろのたたかいと、全国の仲間の同志的な連帯のなかでもりあがった、民主教育を守る全国民的な力というものをふまえないで、果して、神奈川方式とよばれるような、権力の見せかけの譲歩さえ生れる余地があったのであろうかと。和歌山闘争がたたかわれた時点と情勢を考えず、一府県のたたかいと全国のたたかいとの密接な関連をみずして、正しい評価と批判の生れるはずはない。
 もとよりかくいえばとて、和歌山闘争のもつ諸欠陥に、目をおおうものではない。以下、具体的なたたかいの過程にそって、和歌山闘争のはらむ諸問題を明らかにしよう。
P75
by kokuminkyoutou | 2014-09-03 18:26